小諸城三ノ門(懐古園入場門)
日本でも珍しい穴城。山本勘助が縄張り、仙石氏が改修、牧野氏が明治を迎える
別名
鍋蓋城、酔月城、白鶴城
所在地
長野県小諸市小諸町、懐古園
形状
平山城
現状・遺構等
【現状】 懐古園(園内に藤村記念館・郷土博物館・動物園等)、公園等
【遺構等】 三の門、大手門、天守台、石垣、石塁、土塁、空堀、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
1968/06
1996/05/02
2006/09/09
2017/12/11
歴史等
小諸城の起こりは、平安時代から鎌倉時代にかけて「源平盛衰記」や「平家物語」に出てくる小室太郎光兼(木曽義仲の部将)が、現城址の東側に館を築いたのがはじまりといわれる。その後、南北朝争乱期に北朝側に属した大井光忠が小室氏の勢力をおさえて小諸一帯を制圧し、長享元年(1487)、現在の大手町辺りに築城し、「鍋蓋城」と称した。そして、その子・光為がさらに出城として乙女坂城(別名白鶴城、二の丸跡)を構えた。
戦国期になると村上氏が勢力を増し、それを追うべく武田信玄は馬場信房・山本勘助を普請奉行に命じ小諸城を築き信州攻略の拠点とし、小山田昌行を城代とした。弘治元年(1555)、武田信豊が城主となった。
天正10年(1582)、武田勝頼が織田・徳川軍に滅ぼされ滝川一益の持ち城となるが、本能寺の変後、撤退し後北条氏が領有し大道寺政繁を城代とした。
その後、徳川領となり芦田康国が城代となる。そして天正18年(1590)仙石秀久が入城し大改修を行ない、現在の規模となった。元和8年(1622)秀久の子・忠政が信濃上田城に移封となると松平(徳川)忠長が入城。寛永元年(1624)忠長が改易になると、松平憲長、その後青山・酒井・西尾・石川と城主がかわり、元禄15年(1702)牧野康重が入城。以後牧野氏が明治に至るまで居城。
『日本城郭大辞典(新人物往来社刊)、懐古園パンフレット参照』
現況・登城記・感想等
小諸城址を訪れたのは、20歳の学生時代(1968年頃)、山登りの帰りの電車待ちの間にちょっと立ち寄ったのが初めてである。当時は城には興味も無く、島崎藤村が「小諸なる古城のほとり」と詠んだ古城として知っていただけだ。
そして、水の手展望台から眼下に千曲川を望む眺望は絶景であり、いかにも、信州の城址であることを思い知らせてくれたのを薄っすらと覚えている。
さて、小諸城址は、本丸を中心として主郭部分の曲輪、堀、石垣、天守台等の遺構がよく残り見応え充分であるとともに、郷愁を誘う城址である。
中でも、堂々たる偉容を誇りながらも、歳月を経て反りが少し歪んだ天守台角の算木積みの石垣や本丸北側の苔むした石垣や曲輪跡は何とも言えない趣がある。
(1996/05/02、2006/09/09登城して)
高峰高原温泉へ行ったついでに、小諸城へ寄りました。前回の登城は2006年9月9日ですから、何と10年以上ぶりです。
前回までの登城時には、大手門が修築中だったので、復元された大手門だけは見ておきたかったのです。
小諸城は、日本でも唯一の穴城といわれていますが、実は、今までは小諸駅の西側にある三ノ門からしか登城したことがなかったので、本丸の西端が千曲川の断崖絶壁になっており遥か下の方に千曲川が見えるので、低地にあるという感覚がなくて、何故「穴城」と呼ばれるのか理解できていなかったのです。
今回、修復された大手門とその先の高台にある城下町跡へ行って見て、その由来が分かりました。即ち、城郭部が城下町よりも低い位置にあり、城郭自体も、玄関口といえる大手門が最も標高の高い場所にあり本丸が低地にあるのです。
尚、大手門自体の修復はほぼ完成していましたが、その内側の三の丸が修復中でした。
(2017/12/11登城して)
ギャラリー
小諸城縄張り略図(パンフレットより)
小諸城は、日本でも唯一の穴城といわれています。即ち、城郭部が城下町よりも低い位置にあり、城郭自体も、玄関口といえる大手門が最も標高の高い場所にあり本丸が低地にあります。
大手門
本丸から数えて四番目の門なので「四の門」という呼び方もある。慶長年代の再建であるといわれ、小諸駅の北東にあります。
修復中の三の丸(左背後に大手門)
大手門から入城したところが三の丸です。三の丸跡は小諸城址大手門公園として整備されつつあります。
三の門
寄棟造りの二層の門で、元和元年(1615)に創建。寛保2年(1742)の大洪水で流出し、明和2年(1765)に再建。両塀に矢狭間・鉄砲狭間が付けられた戦闘的な建物で正面にある「懐古園」の大額は徳川家達の筆。
二の門への道
右側の石垣は二の丸の石垣で、気が付いた限り、城内で最も大きい石が使われています。明治4年(1871)の北国街道整備の際に、ここにあった石垣は道路端縁石に用いられ、その後は火山灰の崖のままであったが、昭和59年(1984)に、当時より大きな石を用いて復興されたとのことです。
水櫓跡
水車を使い、川水を揚げ、城内各所に給水した所
二の門跡
綺麗な枡形が形成されています。かつては、二層の二の門があり二の丸と南の丸を繋ぐ渡櫓門がありました。
二の丸への石段
二の丸虎口の石段・石垣が素晴らしい。
二の丸跡
二の丸は旧白鶴城といい、徳川秀忠が上田の真田父子にはばまれて、ここに20数日逗留し、関ヶ原の合戦に間に合わず、家康に大変しかられたといわれています。
南丸への石段
この石垣と石段の光景もなかなかのものです。
南丸跡(二の丸跡から撮影)
南丸は武器庫などがあったところです。
番所跡
苔むした感じが古城への郷愁を感じさせます。
北の丸
北の丸は隠居所の跡で、現在弓道場があります。
稲荷神社
稲荷神社は藩主(牧野氏)が元禄15年に越後の与板藩から入封した際、ともに遷座されました。
黒門橋
別名を算盤橋といい、緊急の時、橋桁を取り外すことができる太鼓橋が架かっていました。
黒門橋下の空堀
深さ約7m、幅約14~15mはありそうです。橋を外されたらそう簡単には渡れないでしょうね。
黒門跡
一の門が建っていた所です。
お駕籠台(黒門跡の前に)
本丸跡
本丸跡には、今は懐古神社が建っています。懐古神社は明治13年4月、廃藩後荒れ果てた小諸城址を整備し懐古園となすにあたり、本丸東北に城の鎮守神として祀られていた天満宮、火魂社(荒神社)の2社と藩主牧野家歴代の霊とを合祀した懐古神社を創建。
鏡石
山本勘助が愛用していたという伝承があり、表面は鏡状になっています。また隕石とも云われています。
本丸東側の石垣
本丸東側の石垣は本丸内から階段状になっており、武者走りのような用途もなしていたのでしょう。
本丸を囲む石塁
長~く続く石塁の感じが何とも云えずいいです。 石塁の左側には相当な深さの空堀があります。
本丸北東の石垣
本丸北東の苔むした石垣は本当に素晴らしい。これぞ古城ですネ(^^) 右手前に荒神井戸が。
荒神井戸
荒神井戸は、寛保の大洪水後に掘られたもので城中唯一の井戸です。
天守台
三層の天守閣があったが、寛永3年(1626)の落雷で焼失。その後は、徳川の政策により再建されなかったと云われています。本丸北西部にあり、今では石垣の壁面にかなり凸凹がありますが、その微妙なゆるいカーブが妙に興趣をそそります。
本丸西側にある天守台へと続く石塁
ここの石垣が城内で最も長く続く石垣で、なかなか見応えがあります。
天守台から続く本丸南西部の石垣
左奥が天守台になります。石垣の左側は馬場跡です。
馬場跡
馬場は往復するだけの鉄砲馬場と云われ、今は桜の名所になっています。
富士見台
天気が良い日には、富士山が見えることから名付けられました。
不開の門跡
石段の上(今は別の階段が造られている)が展望台になっており、ここから眼下に拡がる千曲川や山並みの眺望は素晴らしいのですが、何故か写真がない (/。ヽ)
武器庫
文化14年(1817)に藩主・牧野康長が建てたものと云われる武器庫。東京に移築現存されていたものを元に復元されました。