加賀 小松城(小松市)

天守台石垣

加賀藩3代藩主前田利常の隠居城として大改修された広大な「小松の浮城」

別名

芦城

所在地

石川県小松市丸の内町(芦城公園・小松高校付近)

形状

平城

現状・遺構等

現状:芦城公園、小松高校、市街地他
遺構等:移築門、曲輪、天守台、石垣、井戸跡、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2005/05/04

歴史等

小松城は、一向一揆勢が、朝倉氏との戦いのために築いた城砦にはじまるという。
天正7年(1579)、織田信長の命を受けた柴田勝家により一向一揆を鎮圧され解体されてのち、城主は村上義明、丹羽長重(長秀の嫡子) と交替した。関ヶ原合戦で西軍に属した長重は、合戦後、所領没収(慶長8年に常陸古渡1万石を給され、 最終的には磐城白河小峰10万石余の城主)となり、小松城は前田利長の所領となり城代が置かれた。
元和元年(1615)の一国一城令で一旦廃城となったが、寛永16年(1639)、加賀金沢藩3代藩主前田利常の隠居城として、 幕府から認められ復活した。                     利常は大修築を施し、本丸、二の丸を堀で囲み、その周囲に三の丸、 枇杷島、中土居、芦島の四郭、さらにその周囲に牧島、愛宕、後三の丸、竹島など六郭がめぐっているが、各郭はそれぞれ独立しており、 総構えの北と西を限る梯川の水を引いた堀で区切られている。ちなみに、東から本丸へ至るには六重の堀を越えることになる。また、 各郭を連結する橋は、ほとんどが撤去できる構造になっており、さらに最終的には梯川をせき止めることによって周囲を湖沼とし、 籠城できるようになっていたという。
城の面積は、金沢城の倍近い約56万㎡に及ぶ広大なもので、 城地の約30%堀が占めておりその様は「小松の浮城」とも呼ばれたたぐい稀な景観をもつ名城であった。
万治元年(1658)前田利常は病没し、その後は小松城代・小松城番が置かれて明治に至った。明治5年(1872)、全ての建物が壊され、 堀は戦後、全てが埋められた。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)参照」、「現地案内板」より』

現況・登城記・感想等

車を駐車する所がなく細い道の端に止めて見に行った。小松城天守台は写真で見て、形もいいし、 石垣の赤や青い石と白い石のコントラストが実に美しく以前から是非一度見てみたいなと思っていたものである。
夕方近くになって薄暗いとは言わないまでも、 明るさが多少不足しているためか天守閣の石垣のコントラストが期待していたよりはもうひとつ映えない感じがした。 それでも充分美しい天守台であることには変わりはない。当時の設計者の美的センスが感じられる実に素晴らしい天守台である。
案内板によると、金沢産の戸室石(赤戸室・青戸室:安山岩)が2割と地元小松産の鵜川石(凝灰岩) が8割で組み合わされているとのことである。また、金沢城の石垣も戸室石がつかわれているそうである。
芦城公園が三の丸の跡地とのことであったが、時間的なこともあり、寄れなかったのが残念だ。いつか行き直してみたいと思う。
(2005/05/04訪城して)

ギャラリー

小松城の略図          ~クリックにて拡大画面に~

本丸石垣
小松城で現在見ることが出来る唯一の堀の石垣。現在地上高約2mが見えるが、 当時の記録から推測すると道路下に少なくとも高さ3.5mの石垣が埋まっていることになる。

天守台①             ~クリックにて拡大画面に~

天守台               ~クリックにて拡大画面に~

天守台の上

天守台の芸術的な石垣

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント