若狭 佐柿町奉行所(美浜町)

長く続く石垣が残る佐柿町奉行所跡に建つ若狭歴史資料館

国吉城廃城後、入封した小浜藩酒井氏が置いた若狭東部支配の拠点

別名

御茶屋屋敷、御陣屋

所在地

福井県三方郡美浜町佐柿(若狭国吉城歴史資料館)
【アクセス】
国道27号線「木野信号」から約800m東進し、斜め右に入り(国吉城の案内板あり)徳賞寺方面へ向かう。500m程進むと左手に駐車場がある。ここから、若狭国吉城歴史資料館の方へ歩いて行く。
若狭国吉城歴史資料館:美浜町佐柿25-2、電話0770-32-0050
徳賞寺:美浜町佐柿25-18、電話0770-32-1345

形状

陣屋

現状・遺構等

【現状】 若狭国吉城歴史資料館
【遺構等】曲輪、土塁、石垣、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2011/04/24

歴史等

国吉城廃城後の寛永11年(1634)、若狭国に入封した譜代大名酒井忠勝は、若狭国東部支配の拠点として、佐柿町奉行所を置いた。また、藩主の領内巡検や参勤交代の時の宿泊所・休憩所として、同敷地内に御茶屋屋敷が建てられた。地元では「御陣屋」と呼ばれる。
佐柿は、国吉城の城下町から丹後街道の宿場町に変貌した。
幕末の慶応元年(1865)、常陸国筑波山で挙兵した水戸天狗党は、京都を目指すも越前国敦賀で幕府に降伏し、首領武田耕雲斉以下353名が処刑された。この時、遠島を申し付けられた110名余は、後に小浜藩預りとなったが、小浜藩では彼らを准藩士格として扱い、慶応3年(1867)5月、准藩士屋敷を新築し、敦賀から全員を移した。
『パンフレットより』

現況・登城記・感想等

佐柿町奉行所(御茶屋屋敷)跡には、若狭国吉城歴史資料館が建ち、今も立派な石垣が残っている。
資料館の東、山腹には国吉城主の菩提寺の徳賞寺が見える。
また、幕末に敦賀で捕縛された水戸天狗党のうち、小浜藩預りになった110名を収容した准藩士屋敷跡の石垣も残っている。
(2011/04/24訪れて)

ギャラリー

国吉城跡(詰城)、城主居館跡、佐柿町奉行所跡の位置図
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准藩士屋敷跡
駐車場のところの案内板に従って国吉城へ向かうと、駐車場の前に良好に残る石垣を見付けた。これが、幕末に敦賀で捕縛され、処刑されずに小浜藩預りで准藩士格に扱われた水戸天狗党の110名余の屋敷跡である。
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国吉城跡(詰城)城主居館跡、佐柿町奉行所跡全景
准藩士屋敷跡の北側の道を若狭国吉城歴史資料館(佐柿町奉行所跡)へ向かって歩くと、左手に城主居館跡の石垣、その向こうの山の上の国吉城跡が見える。写真右の建物が資料館。
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佐柿町奉行所石垣
佐柿町奉行所の長く続く石垣は良好に残り、その上には若狭国吉城歴史資料館が建てられている。
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土塁
歴史資料館の前(南側)には土塁があり、その上は身障者用の駐車場となり、そこに大きくて立派な国吉城碑が立っていた。この土塁は復元したもののようだ。 
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国吉城址碑
高さ幅ともに、2mほどの立派な石碑だが、できれば本丸跡か城主居館跡辺りに建ててほしいところだ。
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徳賞寺
国吉城主粟屋勝久開基で城主菩提寺「徳賞寺」が、資料館の東、山腹に見える。山門をはじめとして風格のある姿だ。
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