若狭 後瀬山城(小浜市)

石塁が築かれている山頂部の主郭

若狭守護武田氏が築城、丹羽長秀が石垣を積むなど改修、京極氏が小浜城に移る

読み方

のちせやまじょう

別名

武田氏城

所在地

福井県小浜市伏原
【アクセス】
小浜駅の南を走る国道27号線(丹後街道)を西進し、「後瀬山東信号」を斜め右(北西)へ入り、50mほど進んだ最初の路地を左折すると、50mほどの所に愛宕神社の鳥居がある。鳥居の奥の階段が登城道になる。鳥居の手前に空き地があったので駐車した。

主郭までの所要時間

山麓の愛宕神社の鳥居から約25分

形状

山城(標高168m、比高118m)

現状・遺構等

【現状】 山林(国指定史跡)
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、石垣、堀切、畝状竪堀、竪掘、土橋、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2011/04/24

歴史等

後瀬山城は、大永2年(1522)若狭守護武田元光が、戦国争乱の防備として山麓に貫通する丹後街道を掌握するため、また、当時有数の国際港湾都市であった小浜を統治するために、港の後背に聳える要衝の地・後瀬山に築城した。
城主は、若狭武田氏5代元光、6代信豊、7代義統、8代元明と4代続いたが、永禄11年(1568)越前守護朝倉義景が、当城を攻め、元明は降伏、越前へ拉致された。
天正元年(1573)朝倉氏滅亡後、丹羽長秀が国主としてこの城に入り、石垣を積むなどして補修した。現在の石垣は、その時のものである。
その後、浅野長吉、木下勝俊など秀吉の家臣が若狭国主として当城を利用したが、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の功で京極高次が国主となり、翌慶長6年(1601)小浜城を築城、後瀬山城は廃城となった。
『現地説明板他より』

現況・登城記・感想等

後瀬山城は、標高168mの山頂部に主郭を置き、ここから山麓の居館(現空印寺等)に通じる北側稜線と、東側稜線に大小合わせて139ヶ所の曲輪を設けている。
そして、これら2本の稜線にある曲輪をつなぐ道が北東谷間に幾本も見られ「谷の横道」と呼ばれている。また、北側稜線の先端には畝状竪堀・竪堀などを設け、防御を固めている。
今回の登城では、縄張図を用意をしていなかった上、昨日からの雨で非常に滑りやすかったこともあり、愛宕神社から主郭までの東側稜線部のみの登城となってしまった。
実際、登城道は岩盤が多くて滑りやすい上に、片側が急崖(一部、道が崖側に傾斜する箇所も)になっており、崖に滑り落ちるのではないかとさえ感じるほどの危険な登城で、これが精いっぱいだったかもw(*゚o゚*)w。
後瀬山城は、登城前に想定していたよりも遥かに大規模な山城で、今回は東麓にある愛宕神社鳥居から主郭まで東側稜線を登って行ったが、北側稜線部が見どころ満載のようだ。いつか、是非再登城したいものだ。従って、期待を込めて満足度は★★★★☆(*^_^*)。
(2011/04/24登城して)

ギャラリー

後瀬山城縄張図(武田氏館跡説明板より) ~画面をクリックにて拡大画面に~
後瀬山城は、山頂部に主郭を置き、ここから山麓の居館(現空印寺等)に通じる北側稜線と、東側稜線に大小合わせて139ヶ所の曲輪を設けている。
そして、これら2本の稜線にある曲輪をつなぐ道が北東谷間に幾本も見られ「谷の横道」と呼ばれている。また、北側稜線の先端には畝状竪堀・竪堀などを設け、防御を固めている。
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【登城】
今回は、城跡の東麓にある愛宕神社鳥居から主郭まで東側稜線の登城道を登った。
(東稜線の登城道案内図) ~画面をクリックにて拡大画面に~
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登城口の愛宕神社鳥居
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登城道の急な階段
登城口の愛宕神社鳥居をくぐると、正面の石段の左手上に説明板があり、そこからは急な階段が続いている。
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片(左)側の急崖と滑りやすい登城道
登城道は、よく整備はされてはいるが、岩盤が露出しているところも多くて、昨日と先程降った雨のため、滑りやすい上に、片側が急崖(一部、道が崖側に傾斜する箇所も)になっており、崖に滑り落ちるのではないかとさえ感じるほどだったw(*゚o゚*)w。
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東側稜線の曲輪群(段曲輪)
登り始めて12~13分ほどで、曲輪群へ出る。ここからは、右手に幾段も続く段曲輪を見ながらの登城になる。
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二郭
段曲輪を右手に見ながら比較的なだらかな堀底道を歩くこと9分ほどで、広い削平地へ出る。ここが二郭跡のようだ。ただ、ここは戦時中、畑として利用されていたそうで、かなり改変されてしまっているようだ。
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堀切と土橋
二郭の奥には堀切が設けられ、土橋を渡って主郭へと進む。二郭側からの写真はその形が分かり辛かったので、土橋を渡ってから振り返って撮ったものを掲載。写真奥は二郭。
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3段になった主郭部
二郭から土橋を渡ると3段に区切られた主郭部へ出、正面上に主郭台地が見える。主郭下には腰曲輪様の狭い平坦地があり、主郭と同様石垣で固められている。また、登城道には石段も設けられている。
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主郭下の腰曲輪の左側(東側)の石垣
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主郭虎口左側(東側)の石垣
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主郭虎口への石段と右(西)側側面の石垣
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主郭
主郭は東西約30m、南北約40mほどの広さで、現在は愛宕神社が鎮座しており、その西側から神社背後にかけて石塁が築かれ、その手前に「武田氏城址」と刻まれた小さな石柱が立っている。
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主郭西側の石塁(北側から撮影)
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主郭西側の石塁(南側から撮影)
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山上御殿跡への急崖道
主郭奥(南西)にも曲輪があるようだったが、急崖の上、またまた雨が降り始めたので降りていくのを断念(;>_<;)。ところが、後で武田氏館跡の説明板で分かったことだが、すぐ下に山上御殿跡があることが分かったのだw(*゚o゚*)w。ガク~ン!
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武田氏館跡から後瀬山城を
後瀬山城の城主武田氏居館跡は、現在、空印寺と小学校跡(発掘調査中なのか空き地になって立ち入れないようになっていた)となっている。
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