天守台石垣
若狭唯一の近世城郭
別名
雲浜城
所在地
福井県小浜市城内1丁目(酒井神社)
神社用駐車場あり(3台ほど駐車可)。
形状
平城(水城)
現状・遺構等
【現状】酒井神社、宅地、田園
【遺構等】曲輪、石垣、天守台、移築城門(県立若狭高校正門に)、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2006/11/26
2011/04/24
歴史等
若狭国は守護武田信賢がはじめ青井山に城を築いていたが、4代後裔元光が大永2年(1522)、後瀬山城を築いて移った。しかし、その3代裔の元明は織田信長の若狭攻めの際に殺害され、武田氏は約130年間の若狭支配に終止符を打った。
その後、後瀬山城には豊臣秀吉の家臣丹羽長秀・浅野長政・木下勝俊(秀吉夫人ねねの兄家定の嫡男)らが入城したが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦時に勝俊が西軍に与したために除封となり、近江大津から京極高次が8万5千石に加増され若狭の領主となった。
翌年(1601)、京極高次は中世以来の後瀬山城が不便なため、北川、南川を天然の濠とし、小浜の海を背に難攻不落を誇る水城として築城を始め、その子忠高が継続して、一応の完成をさせた。別名を雲浜城とも呼ばれた。また、忠高は大阪の陣の戦功により11万3500石を領することとなった。
寛永11年(1634)京極忠高が出雲松江に移封となり、酒井忠勝が武蔵川越より若狭11万3500石の藩主となり、未完成であった天守閣を、江戸城富士見櫓を模して造営に着手し、寛永19年(1641)40余年の歳月をかけて小浜城は完成をみた。
以来、酒井家14代、237年間の居城となり、廃藩置県を迎えた。
明治4年(1871)12月、大阪鎮台分営設置の改修中に本丸櫓より出火、城櫓の大部分を消失して現在は本丸の石垣を残すのみとなった。
『「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」、「現地説明板」参照』
現況・登城記・感想等
小浜城は、南川、北川両河川に挟まれた三角州上に位置し、西は海(小浜湾)を控えた水城で、本丸周囲に内堀がめぐり、その周囲を北の丸、西の丸、二の丸、三の丸が囲む輪郭式縄張の城であった。
明治7年(1874)に、本丸西側部分(3分の2)を残し、ほとんどの石垣等が破壊されてしまったという。
残された石垣は、天守台をはじめ比較的良好に残っており、見応えもあるが、すぐ傍まで民家が密集しており、外側から全体像を写真に撮れないのが残念だ。
天守台上に登ると、南北には川、西の方には海が見え、往時は、それらに囲まれた水城であったのがよく分かる。
前回の登城(2006/11/26)は、冬至前で昼間の短い季節にも関わらず、城址に着いたのが17:00でかなり暗くなって、まともに見学も写真撮影もできなかったが、やっと、今回、再登城することが出来て、ほっとした!?
(2011/04/24登城して)
ギャラリー
小浜城縄張図(現地説明板より)
明治7年(1874)に、本丸西側3分の2(朱線枠内)を残し、ほとんどの石垣等が破壊されてしまった。
本丸跡に建つ小浜神社
本丸跡に、明治8年(1875)旧藩士達により、藩祖酒井忠勝を祀る小浜神社が建てられた。
表門跡の櫓台石垣と組屋地蔵尊
まずは、南東部から一周する。当石垣は、現在残る本丸跡の南東部にあるが、往時は二の丸から本丸に入る虎口(表門)の西側の櫓台だったようだ。
「組屋地蔵尊」は、小浜城築造に際し、城壁の安全護持のために、豪商組屋六郎左衛門の娘が人柱として立てられることになったが、城代家老三浦帯刀がそれを憐み地蔵尊像を作り、「組屋地蔵」と号して本丸守護の守りとした。しかし、寛文2年(1662)の大地震により石垣が崩れ落ち、その時修理にあたった人夫が諸石に混ぜ、以来、行方が分からなくなっていた。昭和34年、石垣を修繕中、地蔵尊が見付かり、ここに祈念したものだそうだ。
天守台東の石塁へ
天守台へは、天守台から東の方へ続く石塁から登って行く。
天守台東の石塁へ登る枡形虎口
天守台上に登るために、まずは石塁上へ枡形虎口から登り、振り返って撮影。
天守台上
天守台上には、寛永15年(1638)藩祖酒井忠勝により、江戸城富士見櫓を模した白亜3層の天守閣が建てられ、明治初頭まで残っていた。そして、明治4年(1871)12月の火事の際にも、唯一残ったが、明治7年(1874)の廃城令により、その天守閣も解体されてしまった。天守閣復元整備計画が持ち上がっているようだが・・・。
天守台上からの眺望
天守台上に登ると、南北には川、西の方には海(小浜湾)が見え、往時は、それらに囲まれた水城であったのがよく分かる。
(北西方面)
(南西方面)
南西方向には、京極高次が小浜城へ移す前の山城「後瀬山城」も見える。
天守台上から東へ続く本丸南側の石垣を見下ろす
本丸周囲は、西側を除き、すぐ傍まで民家が密集している。何とも複雑な気持ち!?
天守台上から小天守台、さらに北へ伸びる西側石塁を見下ろす
天守閣は複合連結式だったようで、天守台のすぐ北側下に小天守台がある。さらに石塁を経て、虎口の向こうに西櫓台が見える。
西側石塁の外側の内堀跡に、申し訳程度ではあるが、内堀が復元?
本丸西側の虎口(埋門跡)
本丸西側にも狭い虎口があり、往時は内堀に架かる橋を渡って西の丸へ出られるようになっていたようだ。
本丸西側石塁(北西角の乾櫓跡上から西櫓・天守方面を)
僅かではあるが、内堀跡が石塁に沿って直角に曲がっているのが面白い。この石塁の西側だけが、すぐ傍に民家がなく開けている。
本丸北側石塁(乾櫓上から翳櫓方面を)
本丸北側石塁の外側の内堀跡が・・・。
翳櫓
すぐ傍には民家が建っているが、そのすぐ北側には北川が流れ、水城であった往時の面影が残る。
搦手門跡?
3分の2になってしまった現在の本丸跡では、北東角になるが、この辺りが北の丸への虎口があった場所のようで、搦手になるのでしょうか。現地説明板の縄張図によると、往時は枡形虎口になっていたようだ。