武蔵 江戸城(千代田区)

伏見櫓と二重橋(西の丸下乗橋)

太田道灌が築城、将軍徳川氏15代の居城

別名

千代田城

所在地

東京都千代田区千代田

形状

平城

現状・遺構

現状:皇居、東御苑、北の丸公園、市街地
遺構:曲輪跡(本丸・二の丸・三の丸・西の丸・北の丸)、天守台、石垣、土塁、櫓(富士見櫓・数寄屋多聞・伏見櫓・桜田巽櫓が現存)、城門(大手門・平川門・清水門・田安門・外桜田門など12門)、堀(道灌堀・平川堀・大手堀・桜田堀・千鳥ケ淵など内堀・中堀はよく残っているが、外堀「総堀」はほとんど埋め立てられ、市ヶ谷・飯田橋あたりに一部が残る)

満足度

★★★★★

訪城日

登城回数30回以上

歴史等

江戸の地に最初に根拠地を置いた武士は平安時代末期から鎌倉時代初期の江戸重継で、のちの江戸本丸・二の丸あたりに居館を置いた。
江戸氏が15世紀の関東の騒乱で没落すると、長禄元年(1457)に扇谷上杉持朝の命で同家の執事太田道灌が江戸城を築城した。その後は道灌が城代をつとめるが、文明18年(1486)道灌は主家の上杉定正により誘殺される。
永正2年(1505)には上杉朝良が入城し、大永4年(1524)に北条氏綱により陥落するまで扇谷上杉氏の本拠となる。北条氏は遠山氏を城代として江戸城を守らせ、天正18年(1590)には遠山景政の弟川村秀重があったが、豊臣秀吉の小田原攻めの際、大軍に包囲され開城した。
秀吉に関東八州を与えられた徳川家康が同年8月1日に公式に入城した。徳川氏の入った当初は太田道灌築城のままの姿を残した比較的小規模な城だったが、文禄元年(1592)から拡張工事に着手し、慶長8年(1603)に家康が幕府を開くと江戸城の増築に着手し、本丸・二の丸・三の丸(現在の皇居東御苑)に加え、西の丸(皇居)、西の丸下(皇居外苑)、吹上(皇居吹上御苑)、北の丸(北の丸公園)の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削してつくった神田川とを総構えとする大城郭に発展した。
工事には全国の大名が動員された。完成をみたのは家康の孫・家光の代の寛永13年(1636)である。本丸の天守は小天守と大天守の二段が複合するもので、五層の大天守には金鯱が乗せてあった。元和9年(1623)に完成したが、明暦3年(1657)の明暦の大火でこの大天守をはじめ本丸・二の丸殿舎などが焼失焼失した。再建のために天守台が築かれたが、保科正之の工事中止の主張で取りやめとなった。巨大な石垣の天守台はそのままで今も残る。その後も江戸城はたびたび火災を被った。本丸は文久3年(1863)の火災で焼失したまま再建されず、西の丸に機能を移したまま明治維新を迎えた。
慶応4年(1868)年4月、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、10月に東京城に改名。翌明治2年((1869)東京遷都により皇城となる。明治6年(1873)に西の丸御殿が消失。明治21年(1888)には明治宮殿の完成によって宮城と称された後、昭和23年(1948)、皇居と改称された。
昭和39年(1964)北の丸に清水門・田安門が復元、昭和42年(1967)大手門が復元。昭和43年(1968)二の丸跡を小堀遠州の回遊式庭園に復元、この際諏訪の茶屋が吹上御苑より移築される。川越市の喜多院と氷川神社には江戸城の移築建物が残る。近年、丸の内や霞が関の文部科学省で外堀の石垣が地中より発掘された。
『サイト・「フリー百科事典・ウィキペディア(Wikipedia)」参照』

現況・登城記・感想等

現在残る江戸城跡は、本城部分(本丸・二の丸・三の丸)、皇居(西の丸)、北の丸公園の3つの内郭部分であり、皇居を除き、多くの場所が自由に散策することができる。
本城部分は東御苑、北の丸部分は北の丸公園となり、憩いの場、或いは武道館・科学技術館等公共の施設が建っている。
近いこともあり、何十回も訪れている江戸城址であるが、写真を整理して、改めて修正してみた。まだ、写真に撮っていない遺構も多くあるので、今後も修正を加えていきたい。
また、外郭部分については、ほとんど掲載していないので、これについても漸次付け加えていこうと思う。
(2009/07/27)

ギャラリー

皇居外苑全図 ~クリックにて拡大画面に~
00皇居外苑全図

【皇居周辺】
「二重橋(西の丸下乗橋)と西の丸大手門」
ここには、江戸時代には木橋が架けられていたが、明治20年(1887)12月に架け替えられ、石橋に改め、俗にめがね橋とも言われていた。元来は、この奥にある木橋(現:鉄橋、下段写真)が架けられていた部分の濠が深くて架けられないため、下部に通行できない橋を造り、それを土台にして、その上に橋を架けるという二重構造になっていたことから二重橋という名がついたという。しかし、いつしか、この皇居正門前の橋(石橋)が二重橋と言われるようになってしまった。或いは、これら2つの橋を総称して呼ぶこともある。
01二重橋と西の丸大手門

「正門鉄橋(本来の二重橋)」
厳密に言うと、こちらが本来の二重橋である。現在、宮内庁の正式名は「正門鉄橋」である。写真右奥に伏見櫓が見える。
02正門鉄橋(本来の二重橋)

「伏見櫓」 ~手前に西の丸下乗橋、その向こうに本来の二重橋(正門鉄橋)~
西の丸の殿舎の西南隅に建てられたもので、左右には、かなり大きな多聞も残っている。江戸城築城の第2期(3代将軍家光の時)の寛永5年(1628)に伏見城から移築したものと伝えられる。この伏見城は関ヶ原合戦後に家康が再建したものである。現在の伏見櫓は大正12年の関東大震災で倒壊し、復元されたものである。別に「月見櫓」とも呼ばれる。櫓の高さは約13.4mである。
03伏見櫓

「外桜田門」
昔はこの付近に桜が多かったので、桜田門といわれるようになった。桜田門外の変で有名である。
04外桜田門

桜田門枡形
05桜田門枡形

「坂下門」
西の丸大手と内桜田門(桔梗門)の間にあって、西の丸造営後に出来た新門である。文久2年(1862)1月、公武合体運動を推進の老中安藤信正を、尊皇攘夷派の水戸浪士等が襲撃し、失敗したので知られる。世に言う坂下門外の変である。現在の坂下門は渡櫓門のみとなっているが、昔は江戸城の標準的な枡形の門で、今とは違って渡櫓門は左側にあった。坂下門は、明治になってからは宮内省の正門となった。 
06坂下門

「半蔵門」
半蔵門の名の由来は,伊賀忍者で有名な服部半蔵の組屋敷があったのでこの名がついたといわれている。
07半蔵門 

「乾門」
西の丸裏門を明治宮殿造営に際し、現在の位置に移し、この際に左右両袖を新たに増築した。皇居の乾の方角にあるのでこの名がある。戦前、近衛師団の正門と相対して宮城の衛兵たちは、常にこの門から出入りしていた。現在はここから入ると宮内庁に通じ職員または、皇室の方々の出入り門になっていて、警備が厳重である。年始の宮中参賀では出口専用となる。 
08乾門 

「桜田濠」
半蔵門前の土橋の南側から外桜田門にかけての濠を指す。桜田濠のところの吹上曲輪の塁もはじめは総て石垣にする予定であったがあまりの難航工事のため途中で中止となり、的場曲輪の一部を除いて芝を植えた土塁の上部に鉢巻石垣を巡らした。この写真は、三宅坂辺りの桜田濠を撮ったものであるが、実に優美だと思う。 
10桜田濠

「半蔵濠」
半蔵門の北側(吹上御苑の西側)の濠をいう。写真やや右上の建物が半蔵門である。
11半蔵濠

【東御苑(本城部)】
(東御苑絵図) ~クリックにて拡大画面に~
21東御苑絵図

【城門】
江戸城の城門は66門あるが、このうち大は6門、中と小は合わせて60門であった。江戸時代から明治・大正にかけて、江戸城の36門・36見付というのが知られているが、特に規定はない。松平太郎氏が旧幕臣に聞いて書いたという「江戸時代制度の研究」には36門は外郭18門・内郭18門の計36門としており、
【外郭門】
浅草門、筋違橋門、小石川門、牛込門、市ヶ谷門、四谷門、赤坂門、虎ノ門、山下門、幸橋門、日比谷門、数寄屋橋門、鍛冶橋門、呉服橋門、常盤橋門、神田橋門、一ツ橋門、雉子橋門
【内郭門】
和田倉門、馬場先門、外桜田門、田安門、半蔵門、竹橋門、清水門、大手門、大手三門(別名・百人番所門)、内桜田門(桔梗門)、西の丸大手門、平河門梅林門、北詰橋門(きたはねばしもん)、寺沢門、蓮池門、下梅林門、上梅林門、坂下門
となっている。


「大手門」
旧江戸城の正門。諸大名はこの門から登城した。一の門である高麗門(写真中央)を入ると、桝形があり、右奥に重厚な二の門である渡櫓門(写真右)がある。高い渡櫓門と桝形の構造は安土桃山時代になって発達した城門の型式である。 
22大手門

「大手下乗門(大手三の門)」
城内側から撮影したもので、写真奥の建物は「同心番所」である。江戸城外から本丸玄関に達するまでに、「大手門」、そしてこの「大手下乗門(大手三の門)」、さらに「大手中の門」、「書院門」の4つの門を通らねばならなかった。この「大手下乗門(大手三の門)」を入ると「百人番所」が建っている。 
大手下乗門

「大手中の門」
この門は本丸入口にあたり、その警備には特に注意が払われた。ここを入ると「大番所」が建っている。また、写真の左側には「百人番所」が建っている。 
大手中之門跡

「桔梗門」
かつては内桜田門と呼ばれていた。この門は三の丸に入る南門で、幕府の要職者が登下城する門であり、大門六門の一つとして厳重に警備された。道灌時代の泊船亭はこの辺りだったといわれている。道灌の桔梗紋が屋根瓦に残っていたので桔梗門と名前になったという説や、船で各大名がここから帰郷したので「帰郷」が「桔梗」になったという説があるが定かではない。現在は、宮内庁の関係者や皇居参観の時の入り口となり、またこの奥に皇宮警察本部がありその関係者の出入り門になっている。
桔梗門

「平川門」
平川門は三の丸正門であるが、奥女中の通用門であったことからお「局門(つぼねもん)」とも呼ばれている。この門も外枡形の構えであるが、他の門とは異なって帯曲輪が外の竹橋門に向けて長く延びており、また平川濠と天神濠に挟まれた通路はコの字に折れ曲がり、複雑な構造になっている。
平川門 

「平川門・渡櫓門と帯曲輪門(不浄門)」
平川門渡櫓門(写真左)の脇に小さな門(写真右)がある。帯曲輪門で、城内で罪人や死人が出るとこの門から出されたので「不浄門」ともいわれていた。生きたままこの門を出たのは浅野内匠頭と絵島だけといわれている。 
不浄門

「北詰橋門(きたはねばしもん)」
この辺りは、大田道灌時代、城の大手であったといわれる。江戸城には橋を桔ねげて本丸への通行を完全に絶つ桔橋が2つある。1つは、この北桔橋で、もう1つは本丸と吹上方面をつなぐ西桔橋である。北桔橋門は復元されたが、今に残るのは高麗門だけで、渡櫓門、多門はないが、かっては渡櫓門と岩岐多門、乾二重櫓に囲まれた内枡形であった。北桔橋をくぐると、その真向かいが天主台である。
 北詰門

【本丸】
「本丸跡」

本丸は、本城の最高部を占め、3万4,500坪もの広大な面積である。最北隅に高さ51mの日本最大の5層の天守閣を置き、東南隅に3層の富士見櫓を造った。写真やや左奥に天守台が見える。
 
本丸

「天守台」
本丸の天守は小天守と大天守の2段が複合するもので、五層の大天守には金鯱が乗せてあった。元和9年(1623)に完成したが、明暦3年(1657)の明暦の大火でこの大天守をはじめ本丸・二の丸殿舎などが焼失焼失した。再建のために天守台が築かれたが、保科正之の工事中止の主張で取りやめとなった。
天守台

「天守台石垣焼け跡」
明暦の大火の焼け跡です。明暦3年(1657)の「明暦の大火」は江戸城までおよび天守閣も焼失した。大火後、再び天守閣を含め再建が始まったが、緊縮財政と、国内政情の安定化を見越して、天守台だけは出来たが、その上にたつ天守閣の建設は行われなかった。
天守台明暦の大火焼け跡

「天守台穴蔵」
天守台穴蔵

「天守台から本丸方面を望む」
天守台から本丸を


【櫓】

江戸城には櫓が20基もあったが、今では富士見櫓・伏見櫓の3基が残るのみである。

「富士見櫓」
明暦の大火で類焼した後、万治2年(1659)に再建された。天守閣は再建されなかったため、その後は江戸城中央に位置するこの櫓が天守閣の代りを果たした。将軍がこの富士見櫓の3階で、両国の花火を見物したといわれる。関東大震災で倒壊、大破したが、その後、主要部材に旧来の材料を用いて再建された。石垣の高さ約14.5m、櫓の高さ約15.5mである。 
富士見櫓

「巽櫓」
桜田二重櫓ともいわれる。江戸城に残る唯一の隅櫓である。櫓の中には有事に備えて、鉄砲・弓・長柄・持筒などが保管されていた。白亜漆喰総塗込めで横に二条の線があり、出窓状の突き出しが石落としで、弓や鉄砲を撃つ狭間を持っている。 
巽櫓

「巽櫓(手前)、桔梗門(中央)、富士見櫓(奥)」 
巽櫓他

【その他建造物等】
「富士見多聞」
鉄砲や弓矢が納められていた。江戸城本丸には15棟の多門があったが、富士見多門は、その中の唯一の遺構である。
富士見多聞

「石室」
富士見多門の北側に石室がある。江戸城の抜け穴とか、御金蔵等の緒説があるが、大奥御納戸の脇という場所柄から、非常時の大奥の調度などを納めたところと考えられる。伊豆石で造られ、内部は20㎡ある。 
DSC01162 

「松の大廊下跡」
元禄14年(1701)浅野内匠頭長短が吉良上野介に刃傷事件をおこしたところで、障壁画に「松」の絵が描かれていたことから「松の大廊下」と呼ばれた。 
松の廊下

「大奥跡」 
大奥

「同心番所」
大手下乗門(大手三の門ともいう)のところにある。「番所」とは警備の詰所のことで、「百人番所」「大番所」と、この「同心番所」の3つが残っている。城の奥の番所ほど位の上の役人が詰めていた。ここには同心が詰め、主として登城する大名の供の監視に当たっていた。 
同心番所

「百人番所」
大手三の門の上の守り。鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、二十五騎馬の四組が交代で詰めていた。各組とも与力20人、同心100人が配属され、昼夜を問わず警固に当たっていた。 
百人番所

「大番所」
同心番所大手中之門の内側に設けられ、百人番所、同心番所よりも位の高い与力・同心によって整備されていた。
大番所 

【濠】
濠の水は、濠によっては異常に渇水することもあり、水量・水脈等について調査がされ、それによると、濠の水の水源は皇居内・北の丸公園に降る雨水で養われている地下水であることが分かった。
また、濠の水面の高さを見ると、半蔵濠が最も高く、東京湾中等潮位より約16m高い。最も低いのが日比谷濠で東京湾中等潮位と大体同じくらいだという。このため、半蔵濠などの高い方の濠から、順々と一番低い日比谷濠へと濠の水が流れている。

「大手濠」
大手門への土橋北側から平川門への木橋、さらには竹橋にかけての濠をいう。 
大手濠

「桔梗濠」
大手門への土橋の南側の濠。写真右は巽櫓。 
桔梗濠

「蛤濠」
左側に見えるのが坂下門、正面奥が宮内庁。 
蛤濠

「乾濠」
北詰橋の西側から西詰橋にかけての濠であるが、普段は濠の外側へは入って行けないので、北詰橋前から少し見えるだけである。 
乾濠

「平川濠」
北詰橋の東側から平川門にかけての濠である。三宅坂付近の桜田濠とともに、この平川濠の折れが幾重にも重なった光景も見事だ。 
平川濠

「天神濠」
平川門を入り、正面にある濠で、二の丸の北側にあたる。 
天神濠

「白鳥濠」
東御苑の中央(汐見坂の南)に残る濠。 
白鳥濠


【北の丸】

「田安門」
田安門の辺りは、古くは「代官町門」または「飯田口」ともいい、慶長地図には土橋になっており、上州街道の出口になっていた。門名の由来は、この周辺を田安台といい、田安大明神があったので門名としたという。享保16年(1731)、8代将軍吉宗の第二子宗武は、田安家を興し、ここに屋敷を建てた。田安門から南北をつらぬくように西側一帯を田安家、東側一帯を清水家が所有していた。明治以降は、近衛兵営の北門となっていた。
81田安門

「清水門」
寛永元年(1624)浅野長晟により建てられた枡形の城門。門名については、昔この辺りに清水が湧き出ていた、また、武江平川に一寺を草創した時に寺号を清水寺としたと言われ、その名をとって清水門と称したという。宝暦9年(1759)9代将軍家重の第二子重好をして、清水家を興し、この門内に屋敷を築いた。門名にちなんで清水家と称した。
83清水門

「千鳥ケ淵」
左側からみる千鳥ケ淵は濠の形が千鳥に屈折しているからとも、千鳥が羽を広げた形に屈折しているからその名が付いたともいう。ここは桜の名所で有名である。 
92千鳥ヶ淵

「牛ケ淵」
この辺りも、千鳥ヶ淵とともに「桜」の名所である。牛ヶ淵についての名の由来は明らかではないが、『江戸名勝志』には「九段坂脇の御堀をいふ、昔此処へ銭を積みたる牛落ちてその牛死せしよりの名といふ」とあり、あまりにも激しい九段坂のため、銭を積んだ牛車が落ちた事件があったことから、この名がついたというが・・・?江戸城の堀は田安台地、麹町台地などの高低を巧みに利用して出来ている。田安門、清水門等の土橋に立つと両側で水位の違うことが分かる。
牛ヶ淵

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コメント

千代田区の屋根工事見積りサイト(2010/09/22)

はじめまして。

素晴らしい風景ですね。

東京という大都会にも
こんな素敵な環境が残っていたのですね。

大変参考になりました!
また、お邪魔させていただきます^^。

タクジロー(2010/09/23)

ご訪問とコメントを戴きありがとうございます。
今後とも宜しくお願い致します。

しんしん(2010/09/30)

本当に素晴らしい解説や写真で・・・・江戸城も随分見所がありますね。無性に登城してみたくなりました。江戸城の由来は江戸氏からきているとは全く知りませんでした。

タクジロー(2010/10/03)

しんしんさま
お久し振りでございます。
江戸城(皇居)は、予約をすれば普段入城できないところへも参観できるらしいのですが、私は、そのうちにと思いながら今まで行っていません(汗)。
あまり近すぎるのがいけないのかも・・・(苦笑)。

新倉 学(2010/10/29)

一昨日、四ツ谷へ仕事で行く前に登城しました。
余りにも大きく全ては回れませんでしたが・・・。
また、四ツ谷へ行けたので外堀跡も色々と散策できました。
素晴らしい城とは思いますが、やはり戦国中期の城址が好きです・・・

タクジロー(2010/11/01)

確かに大規模で、濠や石垣等も立派ですが、私もやはり戦国の城、特に山城が好きですネ。
それでも、東京の真ん中にこういうのがあってもいいかなとも思っています。

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