越前 勝山城(勝山市)

天守台跡地に建つ城址碑

美濃高須から移封してきた小笠原氏が120年の歳月をかけて完成した城郭

別名

袋田城

所在地

福井県勝山市元町1丁目5番16号、勝山市民会館
【アクセス】
勝山市民会館と勝山市役所の付近一帯が城跡で、勝山市民会館と勝山市役所の建つところが本丸跡です。
勝山市民会館:勝山市元町1丁目5番16号、電話0779-88-2222

形状

平城

現状・遺構等

【現状】 勝山市民会館、勝山市役所ほか
【遺構等】 石碑、説明板、(模擬天守)

満足度

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訪城日

2016/11/25

歴史等

天正8年(1580)、袋田と呼ばれていたこの地に初めて城を築いたのは、柴田勝家の一族、勝安である。勝安は、九頭竜川の河岸段丘である七里壁や、北側に広がる沼地などを利用して城を築き、勝山支配の拠点とした。
柴田氏滅亡後は、成田重政、長谷川秀一、松平直基、松平直良が領主となったが、柴田勝安の築いた城は、元和元年(1615)の一国一城令により壊されたようで、以後、それら代々の領主の館が建てられる程度であった。
その後、正保元年(1644)に松平直良が移封となり、勝山は天領となった。
勝山において城郭と城下町が整備されてくるのは、元禄4年(1691)に小笠原貞信が2万2777石をもって美濃高須から勝山に入封してからである。
貞信は幕府に勝山城跡に築城の許可を願い出たが、許可を得たのは宝永6年(1709)、二代信辰(のぶとき)の代になってからである。
信辰は築城を開始したが、財政難のため工事は中断。その約60年後の明和7年(1770)、五代信房が工事を再開し、二の丸を築いて藩主の御殿をそこに移転した。
七代長貴は、幕府の若年寄という要職についたが、藩の財政は厳しかった上、文政5年(1822)には本丸から出火し、門・高塀・土蔵を残して焼失した。
この時は、町や村々からの見舞い金や手伝いによって御殿が再建された。また、長貴の代には、二の丸北部の未完成部分が仕上げられ、築城からおよそ120年が経過してようやく当初の計画に近い形の城郭ができあがった。しかし、天守閣は築かれることはなかった。
八代長守の時に明治維新を迎えたが、城郭の建物等は売りに出され、天守台と本丸の堀の一部を残し埋め立てられた。
『現地説明板他参照』

現況・登城記・感想等

市民会館の前に綺麗に整備された庭園があり、そこに説明板と立派な城址碑が立っています。
現在、城の遺構は全く残っていないようですが、この庭園のところが天守台があった場所で、明治維新で廃城となったあとも、昭和42年に市民会館建設のために削平されるまで、永らく小山状の天守台が残っていたそうです。
尚、ここから南東へ約3kmのところに5層6階の実に立派な模擬天守の形をした博物館があります。
確か、以前、あまりの赤字のため維持できなくなり売りに出したものの買い手が付かず困っているというニュースを見たことがありますが、まだ開館しているようで、僅かですがお客さんも訪れているようでした。
(2016/11/25訪れて)

【余談】
勝山といえば、京都支店(京滋・北陸がテリトリー)で仕事をしていた頃に「越前蕎麦で有名な福井県でも屈指の蕎麦どころ」と聞いて、いつか食べに行きたいと思っていました。店の名前も教えてもらっていたのですが忘れてしまい、インターネットで美味しそうな店を調べ「八助」という蕎麦屋さんに入りました。すると、店の隣の部屋で、地元のそば粉をひいていました。越前蕎麦といえば、当然、「おろし蕎麦」ですが、大盛がないというので二杯ペロッと食べました。蕎麦の香りが良い上、辛み大根がよく効いていて美味くて大満足でした。

ギャラリー

縄張図(現地説明板より)
増田公輔氏が宝永6年の「勝山城再建絵図」をもとに作成したものです。勝山市民会館と勝山市役所の付近一帯が城跡で、勝山市民会館と勝山市役所の建つ辺りが本丸跡です。
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天守台跡に築かれた庭園
現在、城の遺構は全く残っていないようですが、市民会館の前に綺麗に整備された庭園があります。この庭園のところが天守台があった場所で、そこに説明板と立派な城址碑が立っています。
城址碑は勝山藩最後の藩主小笠原長守の書で、明治22年(1889)に天守台の上に建てられ、天守台が壊される時にここに移されたということです。

勝山城天守台跡地

模擬天守
南東へ約3kmのところに模擬天守が建てられています。5層6階で水堀まで造られた立派なもので、博物館になっています。
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越前蕎麦(八助)
勝山といえば、京都支店(京滋・北陸がテリトリー)で仕事をしていた頃に「越前蕎麦で有名な福井県でも屈指の蕎麦どころ」と聞いて、いつか食べに行きたいと思っていました。店の名前も教えてもらっていたのですが忘れてしまい、インターネットで美味しそうな店を調べ「八助」という蕎麦屋さんに入りました。すると、店の隣の部屋で、地元のそば粉をひいていました。越前蕎麦といえば、当然、「おろし蕎麦」ですが、大盛がないというので二杯ペロッと食べました。蕎麦の香りが良い上、辛み大根がよく効いていて美味くて大満足でした。
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コメント

ねこあたま(2016/11/29)

20年ぐらい前に行ったことがあります。
昭和42年というと再建や模擬天守が作られていた時代ですが、
あの時代に整備していたらどうなったでしょうか。

タクジロー(2016/12/01)

ねこあたま様
ご訪問とコメントをありがとうございます。
天守台や石垣内堀が取り壊されたのは昭和42年の市民会館建設の際だそうですが、模擬天守(博物館)が開館されたのは平成4年だそうです。
天守台だけでも残っていたら、模擬天守も建造されていなかったかもしれないですね。
それにしても、良いか悪いかは別にして立派な天守です。何しろ名古屋城の天守より高いのだそうですから。

城歩きマン(2016/12/04)

大野城跡、勝山城跡などを見学いただきありがとうございます。
また、越前おろしそばも大好物だそうで満足していただけたでしょうか?地元としても大変うれしい限りです。

ただ、勝山城の模擬天守につきましては外から来られる方に少々誤解がある由、残念です。

小笠原氏の勝山城とは何の縁もゆかりもないコンクリートのおもちゃです。モデルは姫路城と言われ、勝山出身の起業家が税金対策で作って、勝山市に寄付しようとしましたが、断られて、自前の博物館として経営していると聞きます。

白山平泉寺の手前に、こんなおもちゃを作って平泉寺の歴史的な景観が損なわれているようで地元の人間としては、とても恥ずかしい限りです。

これに懲りずにまた勝山へお越しください。恐竜博物館もありますから…。

タクジロー(2016/12/05)

城歩きマンさま
当サイトへのご訪問とコメント、ありがとうございます。
当日、模擬天守を見てから、南北朝時代に「日本国一番ノ法師大名」と云われた白山勢力の平泉寺へ訪れようかと思ったのですが止めました。
というのは、平泉寺の歴史はあまりにも深くて、もう少し勉強してから訪れることにしました。
戌山城も未登城に終わったので、来秋にまた、訪れたいと思っています。
今後とも、宜しくお願い致します。

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