越前 北ノ庄城(福井市)

柴田神社に建てられた城址碑

一乗谷から移り築城するも、勝家とお市の悲劇の城に

所在地

福井県福井市中央一丁目

形状

平城

現状・遺構等

現状:柴田神社、福井城、公園、市街地等
遺構等:石垣、堀、土居、石碑、説明板

満足度

★☆☆☆☆

訪城日

2005/05/04

歴史等

一乗谷を拠点としていた朝倉氏を滅ぼし、越前一向一揆も制圧した織田信長は、天正3年(1575)8月、 越前49万石に柴田勝家を封じた。勝家は要害ではあるが山間で不便な一乗谷を捨て、 北ノ庄と呼ばれていた平野の中心に新たに城を築いた。北ノ庄は、もともと足羽荘という荘園が足羽川の北にあったことから、 北ノ庄と俗称されたことに由来する。
勝家が築いた、この城は足羽川と旧吉野川の合流点の北西にあり、近くの笏谷(しゃくだに)より産する笏谷石で瓦を葺いた、 9層の天守がそびえる豪壮なものであったようである。
天正9年(1581)、北ノ庄を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、本国宛の書簡の中に、「北ノ庄城は甚だ立派で、今、 大きな工事をしており、予が城内に進みながら見て、最も喜んだのは、城および他の家の屋根がことごとく立派な石で葺いてあって、 その色により一層城の美観を増したことである・・・・・・・」と報告している。
しかし、天正11年(1583)、織田政権の後継者争いが起こり、4月21日の賤ケ岳の合戦で敗れ、勝家は北ノ庄城へと敗走し、4月24日、 天守に火を放ちお市と共に滅びた。
北ノ庄城には、その後、丹羽、堀、青木の各氏が短期間在城したが、関ヶ原合戦後、結城秀康が、その上に福井城を築いて居城とした。
『「日本の名城・古城もの知り辞典(主婦と生活社刊)」、「現地案内板」参照』

現況・登城記・感想等

北ノ庄城と云えば、何といっても賤ヶ岳の戦で敗れた勝家が、お市との間に生まれた茶々を筆頭に3人の娘を秀吉のもとに逃し、 お市と共に焼け死んだ城ということが頭にあり、非常な興味があった。
往時は九層の壮大な天守があり、現在の福井城址あたりも含む広い城域であったそうだが、 今では、本丸跡らしき所が、柴田神社と小さな公園になっているだけで跡形も無く、 ほんの一部の石垣と小さな土居跡が掘り起こされているだけである。他には、勝家が架けたと云われる半石半木の九十九橋が再生されているのと、 勝家とお市の銅像があった。悲しい歴史を想いうかべながら見物しよう思ったが、五月晴れの明るい日差しのもと、 しかもあまりにも綺麗に整備された公園の中で、ましてや飲み屋街のど真ん中である。そういった心境にはなかなかならないのも当然であろう。
(2005/05/04訪城して)

ギャラリー

柴田神社

柴田勝家像

お市の方銅像

堀跡
発掘調査で確認された。福井城下層 (1600年以前)の東西方向の幅が25m以上ある南北に延びる堀跡である。露出展示している石列は、堀南面の石垣である。

土居
この土居は、 日向門の枡形を構築する土居で、本来の高さは約3mと推定される。
百間堀に面した側と土橋側(西)は、笏谷石で石垣が積まれていた。

九十九橋(イメージ再生)
北陸道と足羽川が交わる地に架けられた橋で、九十九橋の記録は朝倉時代にもあるが、柴田勝家が半石半木の橋としたと伝えられている。

北ノ庄城想像図         ~クリックにて拡大画面に~
羽柴秀吉が勝家を攻めた時に、 その戦況を小早川隆景に報じた天正11年5月15日付の書簡の中では、北ノ庄城について、「城中に石蔵を高く築き、天守を九重に上げ候・・・ ・・・」と記しており、九層の壮大な天守閣であったことが知られる。

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