越前 丸岡城 (丸岡町)

現存天守

現存最古の天守を有する城

別名

霞ケ城

所在地

福井県坂井市丸岡町霞

形状

平山城

現状・遺構等

現状:城址公園
遺構等:現存天守閣、石垣、井戸、土塁、碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

1989/08/27
2006/05/02

歴史等

天正3年(1575)、織田信長は北陸地方の一向一揆を平定するため大軍を派遣し、当時丸岡の東方4kmの山中にあった豊原寺を攻略し寺坊を悉く焼き払った。信長はこの恩賞として柴田勝家に越前国を与え、守護職とした。勝家は北ノ庄に築城をし、甥の勝豊を豊原に派遣し豊原城を構えたが、翌天正4年(1576)豊原から丸岡に移り城を築いた。これが現在の丸岡城である。
天正10年(1582)本能寺の変で信長が倒れると、「清洲会議」の結果、柴田勝豊は近江長浜城主となり、替わって安井家清が城番となる。
しかし、翌天正11年(1583)賤ヶ岳の合戦にて、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって柴田氏は滅亡し、北ノ庄城に丹羽長秀が入ると、長秀の家臣青山修理亮が入城する。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で、修理亮の子青山忠元は西軍に属したため改易となり、徳川家康の次男結城秀康が越前68万石の太守に任じられ、秀康の次席国老今村盛次が2万5千石を領した。
盛次は越前騒動により流罪となり、そのあと本多成重が越前2代目藩主松平忠直の国老となり、丸岡4万石を領した。忠直が乱行により豊後へ配流されるや、成重は大名に取り立てられ、丸岡4万6千石の藩主となった。成重は、「鬼作左」の名で知られる三河三奉行の一人、本多作左衛門重次の嫡男である。重次が陣中から家族にあて、『一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥せ』と書き送った手紙の話は有名だが、その文中の「お仙」は、幼名を仙千代といった成重のことである。
しかし、本多家は4代重益の時お家騒動を起こし、元禄8年(1695)所領を没収された。
代って、越後糸魚川から有馬清純(キリシタン大名有馬晴信の後裔)が入り、有馬氏が8代、160年間居城を経て明治維新を迎えた。
大正中期より昭和の初期にわたり濠は埋められ、現在は本丸と天守閣と僅かに石垣を残し城域は公園となっている。丸岡城は現存する天守閣の中で最も古い建築で、外観は上層望楼を形成して通じ柱がなく、一層は二階三階を支える支台をなし、屋根は二重で内部は三階となっている。又、屋根が全部石瓦で葺かれているのが全国にも稀な特徴である。
昭和9年(1934)国宝に指定されたが、昭和23年(1948)福井大震災により倒壊した。昭和25年重要文化財の指定を受け、昭和30年に修復再建された。
『「丸岡城パンフレット」、「大名の日本地図・中嶋繁雄著(文春新書刊)」より』

現況・登城記・感想等

富山・黒部旅行の途中、たまたま通りかかり、最古の現存天守であるとのことで見学したが、当時(1989年)は、あまり城に興味もなく、正直なところ「小さい丘の上に、ぽつんと建っている小さな城で、たいしたものじゃないなあ」というのが感想だった。
その後、城に興味を持ってから登城し直そうと思いながら、どういうわけか登城できないままである。
(1989/08/27登城して)

17年ぶりに登城しました。再登城しようと思いながら、しかも近くを何度も通りながら今日まで来れなかった。今回も、午後5時を過ぎてしまい天守の中には入れなかった。ただ、城のまわりをゆっくりと廻ることは出来た。
現存最古の天守でもあり文化的にも史的にも価値が高いのであろうが、周りにあるはずの水堀が取り壊され、本丸の石垣と天守が残っているだけというのが寂しい。
しかし、城から少し離れた浄覚寺(旧丸岡藩家老・有馬天然屋敷跡庭園)から小高い丘の上に見える城はやはり絵になる。
(2006/05/02登城して)

ギャラリー

丸岡城絵図
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現存最古の天守
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天守への石段
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本丸跡
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伝説「人柱お静」の慰霊碑
柴田勝豊が築城の際に天守閣の石垣が何度積んでも崩れるので人柱を入れることになり、二人の子供をかかえて苦しい暮らしをしていたお静は息子を侍に取り立ててもらうことを約束に人柱となったが、勝豊は移封となり子供は侍にしてもらえなかった。お静の霊はこれを恨んで、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月の頃になると春雨で堀には水が溢れ、人々は「お静の涙雨」と呼び小さな墓を建てて霊を慰めた。「堀の藻刈りに降るこの雨は いとしお静の血の涙」という俗謡が伝えられている。
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『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ』の碑
「鬼作左」こと本多作左衛門重次が長篠の陣中から、妻に宛てて書き送ったこの手紙は、簡潔な手紙の手本として有名。「お仙」とは重次の嫡男で幼名を仙千代、のちの初代丸岡藩主・本多成重のことである。
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鯱(石製しゃち)
天守台石段わきに置かれたこの鯱は、もと木彫銅板張りであったものを、昭和15年~17年の修理の際に、石製の鯱に改めたものである。その当時は戦禍中で銅板の入手が困難であったため、やむなく天守閣の石瓦と同質の石材で、つくりかえられたもので、この石製の鯱も昭和23年6月の福井大震災により、棟より落下、現在の様な形で残っているものである。現在天守閣の上にのっている鯱は、昭和27年~30年の修復時に、もとの木彫銅板張りに復元した鯱である。
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井戸
天守下にある井戸「雲の井」は、天正3年(1575)織田信長が越前の一向一揆を平定後、柴田勝豊が豊原からここに移り築城した。豊原は一向一揆の最後の根拠地であった為、この地に築城後も一揆の残党が攻撃をしかけてくることも、しばしばであった。しかしそのたびごとに、この井戸の中より大蛇があらわれ、城に“かすみ”をかけて城の危機を救った。この伝統が別名「霞ヶ城」と呼ばれる所以である。
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浄覚寺(旧丸岡藩家老・有馬天然屋敷跡庭園)
丸岡藩家老有馬天然の屋敷は、偶然にも廃藩後、寺屋敷として残されたために昔のままの姿で保存され、当時の景観を今日に伝えている。庭園は京都の庭師松右エ門を招き、近江八景をかたどって造ったと伝えられる。
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浄覚寺(旧丸岡藩家老・有馬天然屋敷跡庭園)からの遠景
浄覚寺(旧丸岡藩家老・有馬天然屋敷跡庭園)から小高い丘の上に見える城は絵になる。
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