僅かに残る土塁上に立つ城址碑と説明板
徳川家康の生母於大の方出生の水野氏の城
所在地
愛知県知多郡東浦町緒川字古城(東浦町役場の北東部一帯)
東浦役場:電話0562-83-3111
形状
平城
現状・遺構等
【現状】 古城公園、宅地
【遺構等】 土塁、石碑、説明板
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2011/08/14
歴史等
尾張源氏の流れを汲む小川重房が知多半島の東北に位置する緒川に住み、その子重清が水野姓を称したと伝わる。
緒川古城は、文明年間(1469~86)に水野貞守(蔵人)が緒川古城を築いて以来、約130年間水野氏の居城であった。
貞守の曾孫忠政は、徳川家康の生母於大の方の父で、次第に勢力を伸ばして松平氏と婚姻を結び、刈谷城を手中におさめて、自身はそこに移り、緒川城(緒川古城)には嫡子信元をを置いた。
信元は、織田信秀に通じたので、今川氏の勢力下にあった岡崎城主松平広忠(家康の父)と不和を生じ、於大の方の離縁の原因となった。
当城は、天正3年(1575)に信元が武田氏に通牒した嫌疑により、織田信長から誅殺を命じられた家康の討手に斬られたのち、一旦廃城となった。
その後、信元の弟で信長に仕えた忠守が新城(緒川新城)を築いたが、慶長7年(1606)水野分長のとき、新城城(新城市)へ移封となり廃城となった。
『「日本城郭大系9」、「現地説明板」参照』
現況・登城記・感想等
緒川古城跡一帯は、すっかり宅地開発が進み、住宅が密集する中にある古城広場(児童公園)の横(上)に僅かに土塁が残るのみだ。
土塁上に立つ城址碑と説明板の後ろは、一段高くなっているが櫓台跡であろうか?
徳川家康の生母・於大の方の出生地でもあるため、公園には「傳通院於大出生地」の碑が立っている。
また、団地の南の方(字羽城)にも土塁跡らしきものを見付けたが果たして・・・?
尚、団地内の道は極めて狭く、曲がり角などは軽自動車がやっと通れるほどのところもあり、勿論、駐車場所もないので、東浦役場に駐車して歩いて行くことをお薦めする。最初、私も車で入って行ったが、四苦八苦した( ̄ー ̄;。
(2011/08/14訪れて)
ギャラリー
緒川城位置推定図(現地説明板より)
古城広場(児童公園)から土塁を見上げる)、㊨於大の方の出生地の碑
土塁は西部分(写真左側)が一段高くなっており、櫓台跡なのかも。徳川家康の生母・於大の方の出生地でもあるため、古城広場(児童公園)には「傳通院於大出生地」の碑が立っている。
字羽城の土塁跡?
位置推定図によると主郭の南側(字羽城)にも土塁跡らしきものを見付けたが果たして・・・?
東浦役場前に設置された城址への案内
団地内の道は極めて狭く、曲がり角などは軽自動車がやっと通れるほどのところもあり、勿論、駐車場所もないので、東浦役場に駐車して歩いて行くことをお薦めする。最初、私も車で入って行ったが、四苦八苦した( ̄ー ̄;。東浦役場の東側の道路を挟んだ反対側に左写真の案内がある。最初、これに気が付かなかった。