蜂須賀家菩提寺・蓮華寺に立つ蜂須賀小六正勝公碑と蜂須賀城趾碑
蜂須賀氏代々の居城、蜂須賀小六と家政の生誕の城
所在地
愛知県あま市蜂須賀1352
【アクセス】
県道65号「丹波信号」を西へと県道126号へ入り、600m程西進した路地を右折し、500m程北上すると正面に蓮華寺がある。ここが城跡で、寺に車が停められる。
蓮華寺:蜂須賀1352、電話052-444-1272
形状
平城
現状・遺構等
【現状】 蓮華寺
【遺構等】 石碑、説明板
満足度
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訪城日
2011/11/18
歴史等
蜂須賀氏は尾張国海東郡蜂須賀郷を根拠とした国人領主であり、小六正勝は大永6年(1526)、蜂須賀正利の長男として蜂須賀城に生まれたが、父の死後、母の故郷である丹羽郡宮後村(現・愛知県江南市宮後町)に移住した。嫡男家政も蜂須賀城で生まれたという。
若年期には川並衆を率いて木曽川の水運業を行うことで利益を得ていたと考えられ、これらの地理的な知識や人脈を用いて美濃国の斎藤道三、尾張国の岩倉城主・織田信賢、同国の犬山城主・織田信清にも一時的に仕えたこともあるが、あくまで独立勢力として存在していた。
永禄9年(1566)、木下藤吉郎の墨俣城の築城で活躍し、以来、秀吉の配下となり死ぬまで側に仕えて秀吉の天下取りに尽力した。
また、嫡男家政も父と共に、信長・秀吉に仕え、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いに参戦し、翌12年播磨国佐内郡内3千石を得た。
天正13年(1585)には、紀伊雑賀攻めや四国征伐で武功を挙げ、正勝は阿波国18万石を与えられたが、家督を嫡男家政に譲った。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際には、家政は阿波国を豊臣秀頼に返上し、自身は出家して高野山に入り、中立的な立場をとっていたが、嫡男至鎮を東軍に参加させ、戦功によって所領を安堵された。
慶長20年(1615)の大坂夏の陣の後、淡路国を加増され、25万7千石となり、その後、徳島城は蜂須賀家代々の居城として明治を迎えた。
尚、日本城郭大系9には、「蜂須賀城は、蜂須賀家政によって築かれた」とあるが、それは考えられないような気がするけど、どうでしょうか?
ただ、最近の調査により、蜂須賀城は東西・南北共に200mに及ぶ大規模な方形城館であったことが分かり、屋敷(城)の周りには堀・土塁があったことも報告されていることを考えれば、後世になってから、家政が大修築したとも考えられるかも?
現況・登城記・感想等
蜂須賀小六といえば、当時、盗賊(山賊)の親分をしていた小六と日吉丸(秀吉)が矢作橋で会ったという逸話が有名であるが、当時矢作川はまだ架橋されていなかったし、勿論、小六は盗賊でもなかったので、当然、後世の創作だ。
しかし、私は、その矢作橋のすぐ近くで生まれたので、何か親近感を感じる(*^_^*)。
そんな、蜂須賀氏小六誕生の城(実際は、城というよりも屋敷だろうが・・・)へ訪れるというので、遺構は何も残っていないことは知っていながらも、何となくワクワク(*^_^*)。
城址碑の立つ蓮華寺は、蜂須賀家が所領を寄進して代々これを保護し、小六の子・家政が阿波に移封された後も菩提寺として保護したといい、蓮華寺の裏山(蜂須賀山、11.8m)中腹の竹林には小六、家政と合葬された墓碑がある。
また、蓮華寺の南200mほどのところに円竜院という寺があり、そこには「蜂須賀小六正勝公旧宅跡」という碑が立っている。
(2011/11/18訪れて)
ギャラリー
蓮華寺境内にたつ数々の石碑
左から、「蜂須賀小六を顕彰する碑」、「蜂須賀小六正勝公碑」、「蜂須賀城趾碑」
蓮華寺
蓮華寺は、蜂須賀家の菩提寺で蜂須賀小六正勝・家政の位牌が収められているといい、写真の山門は家政の寄進によるものだそうだ。
蜂須賀小六正勝・家政公合葬墓碑
蓮華寺の裏山(蜂須賀山、11.8m)中腹の竹林には小六、家政と合葬された墓碑がある。
蜂須賀小六正勝公舊宅趾碑
蓮華寺の南西100mほどにある圓龍院の角(道端)には、蜂須賀小六旧宅跡の石碑が立ち、この辺りが城跡のようだ。