三河 岡崎城(岡崎市)

復元天守

徳川家康出生の城、浜松城に移るまで居城、『5万石でも岡崎様は・・・』

別名

竜ケ城

所在地

愛知県岡崎市康生町

形状

平城

現状・遺構等

【現状】本丸と二の丸跡は岡崎公園
【遺構等】復元天守、復元井戸櫓、大手門、本丸・持仏堂曲輪・風呂谷曲輪・隠居曲輪・板谷郭の石垣、土塁、西・南側の内堀、東・北側の空堀、家康産湯の井戸、えな塚、石碑、説明板等々

満足度

★★★★

訪城日

1987/12/31
1991/05/02
2007/04/28

歴史等

岡崎城は、享徳元年(1452)、または康生元年(1455)、明大寺に居館を構えていた三河の守護大名仁木氏の目代・西郷稠頼の子・ 頼嗣(青海入道)が矢作川水系・乙川(菅生川)と乙川の支流・伊賀川の合流地点にあった龍頭山に城を築き、龍燈山城(りゅうとうざんじょう)と呼んだのが始まりです。
大永4年(1524)、松平清康(徳川家康の祖父)が奪取し、享禄4年(1531)入城して、この地を松平氏の本拠とし、本格的な岡崎城を構えました。
天文11年(1542)12月26日に城中で徳川家康が誕生しており、城内には「えな塚」・「産湯の井」が残ります。
天文18年(1549)松平広忠の死後、永禄3年(1560)までは今川氏の支配下にありました。桶狭間の合戦後、自立した家康は、元亀元年 (1570)に浜松城に移るまで岡崎城を本城としました。 浜松移転後、天正7年(1579)までは嫡男の信康が居城しましたが、信康の自刃後は、石川数正、本多重次が城代となりました。
天正18年(1590)家康の関東移封後、田中吉政が入城し、城郭を拡張して、東海道を城下町の中心地を通るように変更し、城の東・北・ 西に惣構えの堀を廻らし、近世の岡崎城と城下町の基礎造りを行いました。
関ヶ原合戦後の慶長6年(1601)以降には、石高5万石の譜代大名(康重系本多家4代・水野家7代・松平家1代)の居城となり、明和6年(1769)忠勝系本多家の本多忠粛 が入封し、以後6代102年在城し明治維新を迎えました。
明治維新後、天守閣以下の一切の建物が明治6年(1873)に取り壊され、本丸・二の丸など主要部分は明治8年(1875)に岡崎公園となりました。
『「日本城郭大辞典(新人物往来社刊」、「現地説明板」より』

現況・登城記・感想等

岡崎城は「家康出生の城」として神聖視され、石高こそ5万石前後と少なかったが、『5万石でも岡崎さまはお城下まで船がつく』と謡われ、 諸大名は岡崎城主となることを誇りとしたようであり、今も岡崎市民の誇りのようです。
また、小藩ではありながら、東海地方の城では3番目に数えられる規模でしたが、明治6年(1873)の廃城令によって廃城となりました。そして、城内の天守以下の建物及び土地を払い下げ、一切の建物を失いました。
しかし、現在、敷地は龍城神社、岡崎公園として整備され、昭和34年(1959)3月には天守が復興されました。
天守はコンクリート造りとは云いながら、外観はかなり正確なもののようです。
また、本丸と二の丸と周辺の持仏堂曲輪、隠居曲輪、風呂谷等の曲輪と石垣、堀などの遺構残り見応えもあります。
中でも、二の丸から持仏堂曲輪への虎口と持仏堂曲輪から隠居曲輪にかけての空堀・土居・石垣は往時を偲ばせてくます。
他にも、舟着場や家康の産湯の井・えな塚等々が残っています。
また、桜の季節は勿論のこと、藤の花の季節も素晴らしいです。


久し振りに、登城したら、国道1号線からの入城口に立派な大手門が再建されていた。
また、藤の季節でもあり、「五万石ふじ」 と呼ばれる藤の花が見事でした。
(2007/04/28登城して)

【余談】
岡崎は、私が生まれた(母の実家)所で、子供の頃は正月とお盆などには必ず来ていました。しかも、東京や静岡・浜松から実家(四日市)への帰省の際には、城のすぐ脇の国道一号線を車でいつも通り、さらには転勤で2年ほど在住していたにも関わらず、子供の頃に読んだ立川文庫や漫画本での家康がいつも悪者だったせいか、家康が嫌いで、多分、子供の頃も含めて、今まで3~4回位しか訪城したことがないと思います。

ギャラリー

岡崎城主郭要図(日本城郭大事典より) ~クリックにて拡大画面に~
岡崎城の縄張は、本丸の北方に持仏堂曲輪、その北方下に二の丸、その北方に北曲輪、二の丸の東側には三ノ丸と東曲輪、その東に備前曲輪と大手門があった浄瑠璃曲輪、本丸と二の丸の西方下に坂谷曲輪、その西に白山曲輪と搦手口に当たる稗田門があった稗田曲輪、本丸の南は、乙川(菅生川)沿いに菅生曲輪があり、それに、本丸から北側へ6重、西側へ4重の外堀を廻らせていました。
岡崎城縄張図

岡崎公園案内図(現地説明板より) ~画面をクリックにて拡大画面に~
岡崎城案内図

天守閣と龍城神社
天守閣は昭和34年に復元されました。鉄筋コンクリート造りで3層5階です。龍城神社は、家康の偉績を称えて、城内に東照宮を奉祀し、のちに本多忠勝を合祀し、社名を龍城神社(たつきじんじゃ)としました。
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天守 
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大手門
平成5年、国道1号線沿いに立てられた高さ11m、幅16.4mの門です。石垣には地元産のみかげ石を使用し、入母屋造りの屋根には江戸物本瓦が敷かれている。
もともとは、国道一号線の向こう側、ここから約200mほど北東の方向(現松坂屋近く)にありました。

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徳川家康と松平元康の像
徳川家康像は昭和40年(1965)、家康公350年祭を記念して建てられましたた。また、家康の若き時代の松平元康像は、平成4年(1992)に家康生誕450年を記念して建てられました。
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本多忠勝の像
昭和57年(1982)に建てられましたが、忠勝自身は岡崎城の城主になったことはなく、その末裔が最後の岡崎城主になったのですが、やっぱり忠勝は人気があるのでしょうね。
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からくり時計
平成2年(1990)に建てられたもので、定刻になると家康のからくり人形が現れて、照明と音響の演出で能を舞います。
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二の丸から持仏堂曲輪への虎口
この虎口の辺りから隠居曲輪にかけての空堀・土居・石垣が最も往時の雰囲気が感じられます。
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持仏堂曲輪から隠居曲輪にかけての空堀と石塁
この空堀は、非常に大規模なもので、深くて、幅も広いです。また、左の石塁の向こうも同じくらい大規模な空堀になっています。
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隠居曲輪東の水堀
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舟着場
当時は、舟が荷物を積んで菅生川(乙川)を上り下りしましたが、ここが、その積荷を揚げ降ろしした舟着場です。後ろの噴水がいきなり噴き上がったので、止まらないうちにと思い、慌ててシャッターを押しました(苦笑)。
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家康産湯の井
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えな塚
この城で生まれた家康のえな(胞衣)を埋めた塚です。随分立派な石塔が建っています。
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「五万石ふじ」 ~クリックにて拡大画面に~
藤の花が見事に咲き誇り、かなり離れた所からも、その香りが分かりました。この藤は、「五万石ふじ」と云われ、1,300㎡の面積を有し、1~3本が寄植されており、大きなものは周り2.4m、枝の長さが11mもある。房は1mに達するものもあるそうです。
藤1

藤2

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