三河 吉田城(豊橋市)

復興隅櫓(鉄櫓)

東三河の要衝として今川・武田・徳川の攻防を経て、池田輝政が入封し大修築

別名

今橋城

所在地

愛知県豊橋市今橋町

形状

平城

現状・遺構等

現状:豊橋公園
遺構等:復興隅櫓、曲輪、土塁、石垣、空堀、堀切、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2004/02/07

歴史等

当吉田城は、はじめ今橋城と称し永正2年(1505)、牧野古白によって構築された。以来、東三河の要衝として今川・武田・徳川ら戦国武将の攻防を経て、天正18年(1590)に池田照政が入封し、15万2千石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われた。しかし照政は在城10年で播州姫路に移封され、のちに入封した大名は譜代ながら少禄のため照政によって大拡張された城地も未完成のまま明治に至った。
この城の縄張りは背後に豊川をひかえ本丸を中心に二の丸・三の丸を配置しそれで堀が同心円状にとりかこむ半円郭式の後うしろ堅固の城といわれるもので本丸は3,931平方メートル(1,189坪)二の丸は15,154平方メートル(4,584坪)三の丸は50,142平方メートル(15,168坪)腰郭は1,864平方メートル(564坪)堀土手敷は53,534平方メートル(16,194坪)総面積は124,625平方メートル(37,699坪)である。現在見られる遺構は照政時代の旧態を残している。 ※池田照政はのちに輝政
『現地説明板より』

現況・登城記・感想等

以前から何度も国道1号線を通るたびに、豊川の対岸から見える櫓が実にかっこ良く、そのうち是非訪ねたいと思いながら、何故か今日まで登城できなかった。
浜松や岡崎在住時代に来ないで、東京へ戻ってから初めて訪城するというのも不思議なものである。吉田城はかなり広い豊橋公園の中にあった。
本丸跡・二の丸跡・堀・石垣・土塁などがかなり残っており、往時の面影を伝えてくれる。公園の駐車場に車を置き、豊川沿いに隅櫓方面へ歩いて行くと、いくつかの堀切や土塁が見え、本丸への入口となる石垣で造られた虎口へ出る。その真上に見上げる復興隅櫓(鉄櫓)は三層三重櫓式で造られ、天守閣並みの非常に立派なものであり、中に入れないのが残念である。その櫓のところから真下に見える豊川とその向こうに見える町並みの眺めも素晴らしい。豊川が天然の要害堀でもあり、舟の出入りにも便利で良かったのであろうことが窺える。本丸自体はそれほど広くはないが、本丸の横の堀(多分空堀)はかなり深く見応えがある。
(2004/02/07訪城して)

ギャラリー

最初に出会った大堀切(豊川側から撮影)

本丸への虎口

本丸

鉄櫓(復興)

鉄櫓脇からの眺望

内堀

トップページへ このページの先頭へ

コメント

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント