光通寺の墓地隅に立つ「佐々成政城址」の碑
佐々成政生誕の城
所在地
名古屋市西区山田町比良3丁目
【アクセス】
東海交通事業城北線「比良駅」の北北西約120mほどの光通寺一帯が城跡。
「比良駅」の西側から北へ延びる道を北上し、4つ目の角を左折し50mほど西進した右(北)側に光通寺があります。
光通寺:名古屋市西区山田町比良3丁目501、電話052-501-5752
形状
平城
現状・遺構等
【現状】 光通寺ほか
【遺構等】 尼ケ池(蛇池)、石碑、説明板
満足度
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訪城日
2017/02/25
歴史等
比良城は、天文年間(1532~55)に佐々成政の父成宗が築いた。成政は、天文5年(1536)、成宗の第5子として当城で生まれ、織田信長に属して有名をあげた。
比良城は東西68m、南北72mあり、二重堀が周りを囲んでいたといわれる。
北は庄内川に臨み、清洲城の前衛として重要であったが、天正3年(1575)、成政が越前小丸城に在城を命ぜられた時に廃城になったようである。
『「現地説明板」、「日本城郭大系9」参照』
現況・登城記・感想等
光通寺一帯が比良城跡ですが、遺構は残っておらず、寺の山門脇に説明板、墓地の隅に「佐々成政城址」と刻まれた石碑と成政の供養塔が建てられているだけです。
しかし、比良駅の南南東200mほどに蛇池(じゃいけ)公園があり、大蛇がいるという噂を聞きつけた信長が、大蛇を捕獲するために池の水をかい出させ、自ら池に入って探したという逸話のある蛇池(尼ヶ池)が残っていました。
(2017/02/25訪れて)
【尼ヶ池(蛇池)の大蛇事件について】
「信長公記」の記するところによると、比良城は水に囲まれた城で、「小城には当城ほどのよき城なし」ともっぱらの評判であった。
そして、「成政が信長に異心をもっている」という噂があり、その噂で疑心暗鬼になっていた成政が「いっそ、殺される前に殺してしまえ」と考えた。
弘治年間(1555~58)の頃、比良城の近くの尼ヶ池と呼ばれる池があり、一抱えもある大蛇が目撃され、その噂が清洲城まで聞こえた。
好奇心旺盛な信長は、たちまちこの噂に興味を持ち、池さらいをして大蛇を捕獲するといって尼ヶ池まで出掛けた。
この時。佐々成政が信長暗殺を企てたというのである。信長が池に来れば、そのついでに「かねてから小城ながらよい城と評判の比良城を見たい」と言い出すであろう。しかし、それは単なる口実で、自分に腹を切らせるつもりに違いないと成政は、家臣井口太郎左衛門の入れ知恵による暗殺計画をたてた。それは、信長が比良城を見たいと言ったら、まず城の外回りをご覧に入れると称して舟に乗せ、ころあいを見計らって船上にて信長を刺し殺すというものであった。
ところが、この時、信長は池の水をかい出させても、水は一定のところから減らず、自ら潜ってみても影も形も見えないのに落胆して、直接、清洲城へ帰ってしまったため、この暗殺計画は不発に終わってしまったというのである。
大蛇出現という噂も暗殺計画の一環で、デマであったのかもというのである。
『日本の名城・古城もの知り事典・小和田哲男監修(主婦と生活社刊)より』
ギャラリー
光通寺
比良城跡には光通寺が建ち、山門脇に説明板(写真左端)が立っています。
城址碑
寺の西側に墓地があり、その奥(北)に「佐々成政城址」と刻まれた高さ4mほどの石碑が建てられています。その手前(写真右)には供養塔ま建てられているのですが、写真を撮り損ねたのが帰って来てから判明(;´▽`A``。
蛇池公園
比良駅の南南東200m(光通寺の南南東400m)ほどに蛇池(じゃいけ)公園があります。
尼ヶ池(蛇池)
蛇池公園には、大蛇がいるという話を聞きつけた信長が、大蛇を捕獲するために池の水をかい出させ、自ら池に入って探したという逸話のある尼ヶ池(蛇池)が残っています。