模擬天守&模擬大手門
信長が小牧城に移るまで居城、江戸期に名古屋城築城後廃城に
別名
清須城
所在地
愛知県清須市一場古城
形状
平城
現状・遺構等
【現状】清洲公園
【遺構等】伝天守台、復元展示石垣、石碑、説明板、模擬天守・大手門・搦手門他
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
1992/08/16
2010/01/23
歴史等
清洲城の始まりは、足利政権の尾張守護であった斯波義重が守護所下津城(稲沢市)の別郭として鎌倉街道と伊勢街道が合流する要衝の清洲に築城したと伝えられる。
その後、文明8年(1476)に守護所下津城が戦乱で消失して以降、守護所は清洲に移ったとされる。この時期には尾張国は守護代の織田氏が力を持つようになり、岩倉の織田氏が尾張の上四郡を、清洲の織田氏が下四郡を分割支配した。
清洲織田家当主信友が守護斯波義統を殺害したのをきっかけに、弘治元年(1555)、那古野城にあった織田信長は、清洲城を攻め信友を討ち、清洲城に入城し、尾張支配の本拠地としたが、その後、美濃を制した信長は、嫡男の信忠に清洲城を譲り、 岐阜城(稲葉山城)に移った。
そして信長は近隣の大名を次々に倒し、着々と天下統一へ歩みを進めたが、天正10年(1582)本能寺の変により雄図半ばで、その夢は断たれた。
信長没後、天正10年(1582)の清洲会議の後は信長の次男信雄が尾張・伊勢・伊賀の領主となった。当初は伊勢長島に居城を構えていたが、天正地震、木曽川洪水等を契機に本拠を清洲に移した。この頃に清洲城は大改修が行なわれたと推測され、天守や居館をはじめ門塀、三重の堀等を築き城郭の規模も東西1.6km、南北2.8kmもあったと云われている。
信雄以降、清洲城主は豊臣秀次、福島正則と交替し、関ヶ原合戦後は松平忠吉・徳川義直が城主となったが、慶長15年(1610)、徳川家康は清洲廃都、名古屋遷都を指令し、3年後には清洲城は廃城となり、石垣・橋・武家屋敷などの古材は名古屋城築城に利用された。 名古屋城の西北隅櫓(清洲櫓)は清洲城を移築したとも伝えられる。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
清洲城は五条川右岸に築かれていた。城址は清洲公園となっているが、JR東海道線と新幹線によって南北に分断されてしまっている。
線路の北側の公園には伝天守台跡があり、その上に城址碑と信長顕彰碑が建っている。また、南側の公園には信長像が建っている。
一方、五条川の対岸(本城域とは異なる場所)には、平成元年(1989)に清須町の町制百周年記念事業として建てられた三層の模擬天守がある。
また、模擬天守へ渡る大手橋の畔近くには復元展示された石垣がある。
ギャラリー
石碑
伝天守台の上の祠の横には「右大臣織田信長公古城跡」と「清洲城霊碑」の碑が建っている。
もう一つの石碑(清州古城跡の碑)
同じく北東側清洲公園内の川岸傍にあるもう一つの城址石碑。こちらは「清洲古城跡」と刻まれている。
復元展示石垣
平成18年に河川事業に伴い実施された遺跡調査により、清洲公園前の五条川右岸(ここより200m下流)で発見されたもので、清洲城廃城直前の本丸南側の石垣と考えられる。
信長像
線路の南側の公園には信長の銅像が建てられている。こちらの公園の方は、人が少なくひっそりとしていて、遺構は何も残ってないが、多少なりとも古城の雰囲気がある?