尾張 名古屋城(名古屋市中区)

復元された大小天守閣、左手前は本丸御殿

御三家筆頭尾張徳川家居城、天下普請で加藤清正を筆頭に西国大名により築城

別名

金鯱城

所在地

愛知県名古屋市中区本丸1-1

形状

平城

現状・遺構等

【現状】 名城公園
【遺構等】 復元天守・復元本丸御殿、現存二の門(高麗門形式)・現存未申櫓・現存東南辰巳櫓・現存清洲櫓(三層三階の戌亥隅櫓)・石垣・堀・曲輪・石碑・説明板

満足度

★★★★★

歴史等

名古屋城は、関ヶ原の合戦後江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長14年(1609)、江戸幕府の東海道の要所として、また大坂方への備えとして清須から名古屋へ城を移すことを決意し、翌15年(1610)に着工、 17年(1612)に完成させた代表的な平城です。
普請(土木工事)を命じられたのは加藤清正、福島正則、前田利光など北国・西国の大名20名、城内の石垣には各大名や家臣たちがそれぞれの運んだ石に刻んだ目印(刻紋)が多数残っています。その後、名古屋城は明治維新を迎えるまで、徳川御三家の筆頭尾張家の居城として栄えました。
明治にはいり、陸軍省の所管となり、名古屋鎮台司令部や兵舎がおかれましたが、明治26年(1893)に宮内省に移管され「名古屋離宮」となりました。昭和5年(1930)12月、離宮が廃止、名古屋市に下賜され、翌年2月から一般公開が始まりました。昭和20年(1945)5月の空襲で大小天守閣と本丸御殿などが焼失しましたが、焼失を免れた3つの隅櫓と3つの門、御殿障壁画1,047面が国の重要文化財に指定されています。昭和34年(1959)に大小天守閣と正門は、ほぼ昔どおりの外観で再建されました。
(現地説明板より)

尚、城内に 「那古屋城跡」がある。織田信長の生まれた那古屋城は、慶長15年の名古屋城築城の時に取り込まれ、二の丸の一部となっており、二の丸庭園入口に、教育委員会が建てた案内板がある。

訪城日

1994/05
2006/11/23
2017/02/25

現況・登城記・感想等

子供の頃には、近いこともあり、よく行った城であるが、伝清正の大きな石があったことくらいしか憶えていない。かえって、菊人形のことを憶えているくらいである。
1994/5に鰻(ひつまぶし)を食べに行った時に、ちょっと寄った。時間の関係もありほとんど何も見物出来なかった。いつでも行けると思っていると、かえって行けないものかもしれない。名古屋城は明治維新を無事切り抜けたのに、残念ながら戦災で焼けてしまったが、残っていたら、姫路城以上に素晴らしいものかもしれない。かなり復元されてきているようであるし、現存櫓もいくつか残っているようなので、近いうちに、ゆっくり見て回りたいと思う。
(1994/05登城して)


久し振りに、名古屋城へ登城した。今日は菊人形&菊花大会も催されていて、小学生の頃に来たことを思い出しながら城内散策をした。さすがに徳川御三家筆頭・尾張徳川家、しかも天下普請の城である。規模の大きさと、城郭の素晴らしさ等々に改めて堪能した。いつ来ても思うことであるが、戦災で燃えてしまわないで残っていたらなあと、どうしようもないことを考えてしまった。
(2006/11/23登城して)


帰省を利用して比良城を見学し、そのついでに登城してみました。
来年には完成するらしい復元本丸御殿ですが、表書院と対面所を見学することができました。御殿内の復元模写された障壁画などが見事でした。
ただ、ついでに登城するには名古屋城は広すぎて、時間が足りず、本丸御殿見学と天守に登るだけしかできませんでした。
本丸御殿以外にも多くの場所が工事中のようなので、本丸御殿完成の来年、また登城し直すことにします。
(2017/02/25登城して)

ギャラリー

名古屋城絵図(現地案内板より) ~クリックにて拡大画面に~
平城の多くは本丸全体を二の丸・三の丸で囲む輪郭式の縄張りが一般的ですが、名古屋城の縄張りは、二の丸・西の丸・御深井丸の上にほぼ正方形に近い本丸が乗っかっているように見えます。今では三の丸は市街地となり埋もれていますが、それ以外は良好に残っています。尚、現在、本丸御殿復元の他、御深井丸等の修復工事も行なわれており入っていくことができない場所が数多くあります。
名古屋城案内図

正門(焼失・再建)
正門前は外枡形になっています。正門は、明治43年、旧江戸城の蓮池御門が移築されましたが、第二次大戦で焼失した為、昭和34年天守閣と共に再建されました。 
正門1

正門2

西之丸から西南隅櫓(左手前)と東南隅櫓を
正門から入城すると西之丸へ出、左前方に西南隅櫓と東南隅櫓が見えてきます。
西之丸

西南隅櫓(重要文化財)と天守
西南隅櫓は未申櫓とも云われ、2層3階の櫓です。濃尾大地震で石垣とともに崩壊しましたが復旧。鬼瓦には菊御紋が。
西南隅櫓と大天守

本丸西側の内堀
本丸周囲は内堀が囲んでいます。内堀は空堀で鹿が・・・。
DSC04111

表二之門(重要文化財)
西之丸を東進すると表二之門が。古くは南二之門と云われ、門柱・冠木とも鉄板張りとして用材は木割りが太く堅固に造られています。袖塀は土塀で鉄砲狭間を開いて要害としての堅固さを示しています。写真右奥に見えるのは東南隅櫓です。
表ニノ門

DSC04115

表門内枡形
表門は内枡形となっています。写真は城内側から撮ったもので、かつては写真手前に入母屋造り・本瓦葺きの二階建ての表一之門が建っていました。写真左奥が表ニ之門です。
表門枡形

【本丸御殿】
本丸御殿は、初代尾張藩主の住居・政庁として使用するために、慶長20年(1615)に建てられました。昭和5年には天守と共に国宝に指定されましたが、昭和20年の空襲により焼失しました。
平成21年(2009)から復元工事を開始され、平成25年5月29日に玄関と表書院、平成28年6月1日に対面所と下御膳所の公開が始まりました。尚、平成30年に全体の公開が予定されているようです。
本丸御殿公開部分平面図(2017/02/25現在)
名古屋城本丸御殿平面図

本丸御殿(玄関前から)
写真右が玄関で左奥が表書院です。尚、入場口は写真右奥にあります。
本丸御殿

本丸御殿(北東から撮影)
写真右端から、対面所、表書院、中之口部屋です。
本丸御殿2

本丸御殿内部
御殿内の復元模写された障壁画などが見事でした。
玄関一之間
玄関は、本丸御殿を訪れた人がまず通され、取次ぎを待つ建物です。一之間(18畳)・二之間(28畳)の2部屋からなっており、一の間には床もあります。周囲の壁や襖には虎や豹が描かれています。
玄関一の間

玄関二之間
玄関二の間

表書院
正規の謁見に用いられた建物で、上段之間(15畳)・一之間(24畳半)・二之間(24畳半)・三之間(39畳)、納戸之間(24畳)の5部屋からなり、江戸時代は大広間と呼ばれていました。障壁画は松・桜・雉などの華やかな花鳥図です。
表書院三之間
表書院三の間

表書院一之間(奥の部屋は上段之間)
表書院一の間から上段之間

表書院上段之間
表書院上段の間

対面所
対面所は、藩主と身内や家臣との私的な対面や宴席に用いられた建物です。上段之間(18畳)、次之間(18畳)、納戸一之間(24畳)、納戸二之間(24畳)の4部屋があり、上段之間と次之間には京都や和歌山の名所が、多くの人物とともに描かれています。
対面所次之間
対面所次の間

対面所上段之間
対面所上段の間

対面所納戸一之間
対面所納戸一の間

天守(昭和34年10月再建)
天守

天守閣石垣の反り
天守の石垣は上部で外側にそりだした「扇勾配」の技術が取り入れられている。これは加藤清正が担当して築いたので、とくに「清正流三日月石垣」といわれている。
DSC04168

天守からの景色
左の櫓は西南隅櫓。右奥にはトヨタのノッポビルが目立つ。
天守からの眺望

天守から本丸御殿を
IMG_0798

清正石
天守閣の石垣の構築を命ぜられた加藤清正は、巨石の運搬に際し、自ら音頭をとって、木遣を歌わせ民衆の老若を問わず引綱をとって運んだと伝えられるが、この石垣の施工大名は黒田長政なので単なる説話と思われる。
IMG_0804

東ニノ門
IMG_0805

不明門(本丸内から)
不明門

不明門の剣塀(忍び返し)
不明門の外側から撮ったものです。
不明門忍び返し

天守閣基礎石
昭和34年に天守閣再建の際に旧国宝の名古屋城天守閣の基礎土台石を移して再現したもの。
天守閣基礎石

二の丸(東南隅櫓から写したもの) 
二の丸

二の丸にあった那古野城
那古野城跡

東南隅櫓(重要文化財)
辰巳櫓とも云われ、その規模・構造は西南隅櫓と同じであるが、「落狭間」の破風を異にしている。この櫓は、創建当時の姿を伝えるもので、鬼瓦などに葵の紋が見られる。
東南隅櫓

西北隅櫓(重要文化財)
戌亥櫓とも清洲櫓とも云われ、他の建物の古材を転用して建築されている。
DSC04202

トップページへ このページの先頭へ

コメント

BLUES(2015/01/10)

私の地元名古屋城。TOPの画像にある本丸御殿跡には、今、金ピカの本丸御殿が建っています。一部公開を2度観てきましたが、
戦国とは違いますが、いろんな思いが巡ります。
織り上げ細工の天井がすごいです。

北側にある、鉄砲狭間や石垣が好きです。

タクジロー(2015/01/17)

BLUESさま
ありがとうございます。
本丸御殿を見たいと思いながら、まだ未訪問です。
年内には登城したいと思っております。
多分、2月には行けると思うのですが・・・。

みえの(2015/01/18)

小学校時代 名古屋城へ行くと 意味もわからず 本丸御殿の礎石の 上で遊んでいました。
50年前は 立ち入り禁止になってなかったので・・・今思うと写真の一枚でもあったら、と思っています。(白黒写真でも貴重でしたが・・・・w

タクジロー(2015/01/19)

私も、50年以上前に、何度か訪れたことがあるのですが、生憎、何も憶えておりません。
勿論、写真も撮ってません。

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント