美濃 岐阜城(岐阜市)

金華山山頂に再建された天守

斉藤道三が大修築して居城、後に織田信長が天下統一への本拠地に

別名

金華山城、井之口城、稲葉山城

所在地

岐阜県岐阜市金華山天守閣

形状

山城(標高:329m、比高差:308m)

現状・遺構等

現状:岐阜公園(山林)
遺構等:曲輪、土塁、石垣、天守台、井戸、模擬天守、模擬櫓、模擬門、碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

1992/03/15
2005/03/13

歴史等

金華山頂にはじめて砦を築いたのは、建仁年間(1201~1204)に、鎌倉幕府の執事・二階堂行政と伝えられる。
その後、室町時代には川手城を居城とした美濃の守護土岐氏の筆頭家臣斎藤氏が居城した。天文18年(1549)には、斉藤道三が稲葉山城を修築して入城(天文23年には鷺山城に移る)する。
特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄10年(1567)(一説には永禄7年)8月、織田信長が、この地方一帯を平定するとともに、地名も「井の口」を「岐阜」と改称し、天下統一の本拠地としてからであった。
しかし、慶長5年(1600)8月、関ヶ原の前哨戦の際、信長の孫・秀勝が西軍に味方したため、東軍に攻め入られ、激戦の末落城した。翌慶長6年(1601)岐阜城は廃城となり、天守閣や櫓等は加納城に移された。
明治43年(1910)には模擬城が再建されたが、第二次大戦で炎上した。現在の模擬城は、昭和31年7月築城されたもので、鉄筋コンクリート造りの3層4階構造である。
『岐阜城パンフレット参照』

現況・登城記・感想等

城そのものは、鉄筋コンクリートで出来た模擬城ではあるが、岐阜の市内から金華山の上に見える岐阜城の遠景を見るだけで、斉藤道三と織田信長の攻防の舞台が思い浮かんできて、その時代に自分が入り込んだような想いにふけってしまう。そして、何故かそんな歴史を持った岐阜という街やここに住む市民が羨ましくなってくる。
山頂へはロープウェーで登り、天守閣に向かって歩いた。途中に、秀吉の千成瓢箪発祥の地というのがある。天守閣からの眺望は素晴らしい。眼下には、長良川が岐阜市内を貫流し、東側には恵那山・木曽御岳山、北側には乗鞍・日本アルプス、西には伊吹山・養老・鈴鹿の山系、南側には濃尾平野が広がり木曽川が伊勢湾に流れ込む様が一望におさめることができる。
山麓には信長の居館跡とされる所があり、曲輪跡や石積みが綺麗に整備されている。特に、入角と出角は見物である。石垣を意識的に屈折させる事によって防御力を上げると共に石垣の崩壊を防いでいる。現在は石垣の段が一段のみ残存しているが、実際は山側にさらに高く詰まれていたらしい。
また山の中腹には、かなりの遺構が残っているらしいが、時間の都合もあり、今回は往復共にロープウェーに乗ってしまった。次回は、それらの遺構をじっくり見ながら、ゆっくりと山頂から降りてきたいと思う(登るのは、あまりにも厳しそうだから、敢えて、私の「山城登城の鉄則:山城は麓から登城すべし」を破るつもりである)。
(2005/03/13登城して)

ギャラリー

岐阜城遠景
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千成瓢箪発祥の地
岐阜城攻撃にあたり秀吉は山麓の猟師堀尾茂助等7名を従え岩戸口よりこの地に潜入し薪小屋に火を放ち大いに奮戦した。この時空瓢箪を槍の穂先に結びつけ城兵数名を倒したといわれ、この地が千成瓢箪発祥の地といわれている。 
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金銘水
金華山は「一石山」と呼ばれたように全山が一つの岩塊で成り立っている。したがって籠城用の飲み水の確保が非常に困難であった。湧き水は一滴も無い為、雨水と岩の間から僅かにしみ出てくる水を溜める井戸を岩塊に掘削している。この井戸は二の丸の西に位置する軍用井戸で金銘水と名付けられている。 
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天守
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天守閣からの眺望
岐阜市内を長良川が貫流している。中央にポツンと突き出た丘が斎藤道三の隠居城・鷺山城址 
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本丸井戸(二の丸東に位置する軍用井戸) 
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織田信長居館跡の模擬冠木門 
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織田信長居館跡 
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入角と出角
石垣を意識的に屈折させる事によって防御力を上げると共に石垣の崩壊を防いでいる。現在は石垣の段が一段のみ残存しているが、実際は山側にさらに高く詰まれていたらしい。
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若き日の織田信長像 
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板垣退助像
山麓には、若き日の信長像の他に、板垣退助像もあります。明治時代、この地で演説中に暴漢に襲われ有名な「板垣死すとも自由は死せず」せりふを残したと伝えられているが、これは作り話らしい。 
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