三河 岩津城(岡崎市)

本丸虎口への土橋

松平宗家3代目信光が西三河地方への侵攻の本拠地とした城

所在地

愛知県岡崎市岩津町東山(東名高速道路を挟んで岩津天神の対面の山)

形状

山城

現状・遺構

現状:山林
遺構等:曲輪、空堀、土塁、虎口、土橋、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2007/04/28

歴史等

松平氏の祖は不祥な点が多いが、3代目信光の代になると資料に名前が出てくる。 信光がが松平氏の基礎をつくった人物であることは確かである。
この信光のときに、松平から海岸に近い平野部を求めて岩津に進出し、岩津城を築き、西三河地方の勢力を伸ばす本拠地とした。
文明3年(1471)、信光は、矢作川を越え碧海郡の安祥城を奪い、 勢いをかって額田郡の岡崎城も手に入れた。 信光の代に竹谷・形原・大草・長沢・能見・五井・深溝の7つが緒流として分家したと云われる。なお、4代目親忠は本家を安祥城に移した。
文亀年中(永正3年<1506>との説も?)には、今川氏が伊勢新九郎(のちの北条早雲)を派遣し、西三河に侵入し、 岩津城下は兵火にあったりしたが、4年間にわたる長期戦の末、退却した。また、武田軍が攻め寄せてきたこともあるが、退却したという。
『歴史と旅・戦国大名家総覧(秋田書店刊)参照』

現況・登城記・感想等

登城口に「私有地につき通行ご遠慮下さい」の看板が!岩津城址のすぐ下にある「信光明寺」の方に聞くと、 地主さんも城見学だけなら大丈夫のようだとのことで登城!!
城址は思いのほか遺構がよく残っている。曲輪(腰曲輪も含めて)・空堀・土塁・土橋・虎口等々いずれも非常に良好なまま残っている。また、 城の北側の低いところには水堀跡?も発見。
見所も多く、また見応えもある城であった。
(2007/04/28登城して

ギャラリー

登城口
登城口にいきなり、「私有地につき通行ご遠慮下さい」の看板が!! あせる~(汗)
岩津城址のすぐ下にある「信光明寺」の方に聞くと、地主さんも城見学だけなら大丈夫とのことで登城!!

㊧土橋、㊨土橋横の空堀(この土橋も、 空堀も実に良好な形のまま残っていた)
 

土橋と空堀と土塁(虎口横の土塁上から撮影)

㊧主郭、㊨腰曲輪
㊧主郭はかなりの広さがある。㊨腰曲輪跡は、写真では見づらいが、手前の主郭との高低差はかなりのものがある。そして、その奥下段にはさらに腰曲輪跡がある。
 

主郭への虎口横の土塁上に立つ「岩津城址」の碑
 

水堀跡?(城址の最も低い北側に水堀跡らしきものを発見!!)

岩津城址全景

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