大手門跡から本丸を
桶狭間の戦いの前夜に今川義元が宿泊した城
所在地
愛知県豊明市沓掛町東本郷、沓掛城址公園
形状
平城
現状・遺構等
【現状】沓掛城址公園
【遺構等】曲輪、土塁、空堀、土橋、井戸、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2009/05/07
歴史等
沓掛(くつかけ)城は、正中2年(1325)に近藤宗光を初代として、代々、近藤氏が城主であったといわれる。
9代目景春の時、鳴海城主山口左馬助に落とされて今川勢に属したという。
永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで織田信長は、この城を攻め落し、景春は戦死した。
戦後、恩賞として簗田出羽守に与えられ、城は整備された。
天正3年(1575)出羽守が加賀国に移った後、織田信照が継ぎ、天正5年(1577)川口久助が城主となった。
川口久助は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で西軍石田三成方につき、捕らわれの身となり沓掛城は廃城となった。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
沓掛城は、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いの前夜、今川義元が諸将を集めて軍議を行った城として有名です。
往時は、東西288m、南北234mあり、本丸、二の丸、諏訪曲輪などで構成された平城で、惣堀に囲まれた戦国時代の城としては、比較的規模の大きな城であったそうです。
現在は、本丸とその周囲を囲む空堀や土塁と二の丸の一部が綺麗に整備されていて市民の憩いの広場になっています。
また、あまり整備はされていないが諏訪曲輪の一部も残っています。
公園化されても、このように保存整備がされているのは嬉しいですね。
(2009/05/07登城して)
ギャラリー
城址公園入口&駐車場(侍屋敷跡)
沓掛城址公園は公園北に駐車場が完備されていますが、駐車場も侍屋敷の一部であったようです。
駐車場の西も侍屋敷跡で、今は綺麗に整備された芝生広場になっています。
本丸北側から北東部にかけての空堀
本丸周囲を取り巻く空堀は、なかなか規模も大きい上に、綺麗に整備されてい見応えがあり気持ちいいです。
本丸北側の堀と橋
本丸跡へは、侍屋敷跡から、この橋を渡って入城します。尚、右側に見える石碑には説明文が彫られています。
諏訪曲輪跡
上写真の橋を渡って、一旦、本丸跡へ入城後、諏訪曲輪跡へ向かいますが、諏訪曲輪跡は森になっています。
本丸と諏訪曲輪間の堀
本丸の西側のうち、諏訪曲輪跡の南側は宅地になっていて、堀の西側は石垣で固められています。
本丸と諏訪曲輪間の堀に架かる橋
橋を渡って諏訪曲輪へ行きます。諏訪曲輪は本丸より一段高くなっています。
諏訪曲輪跡
諏訪曲輪跡は、藪にはなっていないものの、他の曲輪のようには整備はされていません。
諏訪曲輪と本丸間の堀に架かる橋
諏訪曲輪側から撮ったもので、橋の向こうに見えるのは本丸です。
本丸土塁&井戸
本丸西側には土塁がよく残り、綺麗に整備されてかっこいいです。土塁は、南から北の方へとだんだんと高くなり、北西部はかなり広くなっています。多分、櫓でも建っていたのでしょう。
本丸南西部の堀と二の丸跡
当写真は本丸南西部から撮ったものですが、二の丸周囲には、元々、土塁がなかったのでしょうかねえ。尚、本丸と二の丸間の土橋(写真左)を写し損ねて、一部しか見えないのが残念です(;>_<;)。
本丸南西部から西側にかけての堀
本丸南西部の堀は、かなり広いですが、本丸西側は宅地が建てられた際に、狭くなったのでしょうかねえ?
本丸南東部の堀
この辺りの堀跡は、「菖蒲」が綺麗に咲いていました。
大手門跡から本丸跡を
二の丸跡から本丸跡への土橋を渡り切ったところが大手門跡で城址碑と説明板が立っています。本丸西側の土塁(写真左)が北の方へ行くにしたがって高くなっているのがよく分かります。