美濃 曽根城(大垣市)

曽根城本丸跡に建つ華渓寺

西美濃三人衆の一人稲葉一鉄の居城

所在地

岐阜県大垣市曽根町1丁目772-1(華渓寺)
華渓寺:曽根町1丁目772-1、電話番号0584-81-7535
駐車場あり

形状

平城

現状・遺構等

現状:華渓寺
遺構等:石垣の平面表示、石碑、説明板

満足度

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訪城日

2010/11/30

歴史等

曽根城の創築年代は不明だが、室町時代末期に稲葉通富によって築かれたと言われ、以後、稲葉氏の勢力拡大の拠点になった。
中でも、西美濃三人衆の一人として活躍した稲葉良通(一鉄)は、土岐氏が没落してのち、斉藤氏に仕え、さらに織田信長に仕えて、永禄10年 (1567)5万石を領した。
一鉄はその後、羽柴秀吉に仕え、この城は、一鉄の子貞通、孫典通へと続いたが、天正16年(1588)に郡上八幡城4万石に移封された。
稲葉氏のあとには、西尾光教が2万石で入封したが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、西尾氏は揖斐城へ転封となり、 曽根城は廃城となった。
城跡は開墾されて田畑となったが、享保19年(1734)には一鉄が生母の菩提を弔うために建てた華渓寺が現在の場所(本丸跡) に移築された。
『「現地説明板」、「日本城郭大系9」等より』

現況・登城記・感想等

曽根城本丸跡には華渓寺が建ち、石碑や説明板が設けられている。
お寺の地が、周囲より僅かに(約1m)高くなっているのが往時の様子を物語っているのだろうか。
お寺の裏(塀の外側)には、平成元年に発掘された稲葉一鉄時代のものと思われる石垣と石敷の表面表示があり、その説明板も設けられている。
尚、この辺りは平坦で、今ではとても要害の地には見えないが、寺の入口付近には、今でも福水がこんこんと湧き出し、 寺の裏の公園も大きな池があり、往時は水や深沼田などで守られた堅固な城であったのではないだろうか。
(2010/11/30訪れて)

ギャラリー

華渓寺への入口に建つ曽根城跡の碑と説明板
華渓寺へ入って行く道の前に、曽根城跡の碑と説明板が立ち、説明板には往時の曽根城周辺の図が載っている。 すぐ後ろには、一段下の写真の「華渓寺福水」の建物がある。

湧き水「華渓寺福水」
この福水の水量はすごいと思ったが、梅雨時にはもっと高く湧き上がるのだそうだ。しかも昔はもっと高く。
大垣は昔から「水の都」と言われ、曽根町も水とは木っても切れない歴史があり、特に揖斐川の氾濫による洪水には昔から悩まされてきた。一方、 40年ほど前までは、どこの田んぼでも「がま」といって地下水があちこちから湧き上がって豊富な水の恩恵を受けてきた。また、 寺の裏の曽根城公園の大きな池も湧き水による透き通った水で湛えられている。

華渓寺前に立つ曽根城本丸跡の碑と説明板

石垣の平面表示
華渓寺の裏(塀の外側)には、 平成元年に発掘された稲葉一鉄時代のものと思われる石垣と石敷の表面表示があり、その説明板も設けられている。この石が、 往時の本丸の境界を示していることになる。
 

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