東面の石垣群
関ヶ原合戦後、関一政の多羅城の跡へ築いた西高木家の陣屋
別名
多良城、多羅城、高木陣屋
所在地
岐阜県大垣市上石津町宮237(上石津資料館)
上石津資料館:電話0584-45-3639
形状
平山城
現状・遺構等
現状:大垣市上石津資料館
遺構等:石垣、土塁、主屋、表門(長屋門)、埋門跡、井戸跡、墓石群、石碑、標柱、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2010/11/30
歴史等
天正10年代(1582~1592)から、関一政が多羅城主3万石として領していたが、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、 伊勢亀山へ移封となり、替わりに高木貞利が関ヶ原の戦功により2300石で入って陣屋を構えた。
高木家は、清和源氏源頼親を祖とし、大和の高木村にすみ高木氏を称した。その後、伊勢国に移り、室町時代の中頃には貞利の父貞久が斉藤道三に仕えて駒野城に住み、後に織田信長に属して今尾城主となった。
子の貞利・貞友の時の文禄4年(1595)に関東に下向して徳川家康に仕え、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の軍功により、再び美濃に帰って、貞利は2300石、貞友は1000石、貞俊は1000石を拝領し、翌6年(1601)入部し、それぞれ西高木家、東高木家、北高木家と称した。
旗本高木3家は交代寄合美濃衆といい、大名格で寓せられ、3家が隔年で参勤交代を行なった。
高木家は代々美濃,尾張,伊勢の川奉行を命ぜられ、幕末に至るまで河川の改修工事に少なからぬ功績を挙げている。
『「現地説明板」、「日本城郭大系9」参照』
現況・登城記・感想等
上石津資料館の坂の下に着くと、目の前に塁段になった石垣群が現われる。この石垣は、とても陣屋風情の石垣ではなく、城郭そのものだ。
石垣は、一番手前の埋門跡の石垣から登り石垣となって、高台上まで続いている。
石垣群は、下から見上げても見事だが、町並みや山並みを背景に上から見下ろす光景も素晴らしい。
陣屋敷地内には、上石津資料館が建ち、その裏には土塁が残り、多くの石が埋まっていた。そして、その傍には石が集められている。恐らく、往時はこの土塁にも石垣が設けられていたのだろう。
土塁の北側は雑木林になっているが、この辺りも陣屋域内のようだ。
また、表門も残っていたが、そこには無情にも「陣屋整備中につき立入りご遠慮願います」の文字。
しかし、考え直してみると、整備が終われば、甦った陣屋が見学できるということだ。実家から割り合い近いことだし、来年の秋にでも、また来るとしよう(^^)。
(2010/11/30登城して)
ギャラリー
正面に石垣群が
西高木家陣屋は多羅地区の高台にあり、背後に浸食谷を控えた要害地形を利用して築城されている。上石津資料館の坂の下に着くと、目の前に塁段になった石垣群が現われる。この石垣は、とても陣屋風情の石垣ではなく、城郭そのものだ。
登り石垣
石垣は、一番手前の埋門跡の石垣から登り石垣となって、高台上まで続いている。埋門は文化12年(1815)に完成したが、今は石垣だけが残り、その上に「高木三家入郷地の碑」が立てられている。
埋門石垣と陣屋碑
埋門の前には、岐阜県知事による「美の衆陣屋跡」の文字が・・・。「美の」と「美濃」をかけたダジャレ?
石垣を上から見下ろす
石垣群は、下から見上げても見事だが、町並みや山並みを背景に上から見下ろす光景も素晴らしい。
表門(長屋門)
表門は、嘉永5年(1852)11月建てられたもの。そこには無情にも「陣屋整備中につき立入りご遠慮願います」の文字(泣)。
土塁
上石津資料館の裏には土塁が残り、多くの石が埋まっていた。そして、その傍には石が集められていた。恐らく、往時はこの土塁にも石垣が設けられていたのだろう。土塁の北側(写真奥)は雑木林になっているが、この辺りも陣屋域内のようだ。
井戸
資料館のすぐ裏には井戸跡も残っている。
力石
また、力石なるものも・・・。往時、力自慢の若い衆が、この石を持ちあげて力試しをしたと伝えられているのだとか。
陣屋下を通る伊勢街道沿いの石垣
陣屋下を通る伊勢街道沿いにも石垣が延々と続いていたが、この辺りまで西高木家陣屋だったようだ。高木家は西高木家以外に東高木家、北高木家の2家があり、この伊勢街道の東側(写真の道路左側)が東高木家陣屋で、北の方には北高木家の陣屋があったという。
東高木家の蔵
伊勢街道筋の東高木家陣屋跡には文政年間(1818~30)に建てられたという蔵が残っている。