美濃 揖斐陣屋(揖斐川町)

竹中医院の東側にたつ石碑

関ヶ原合戦の功で築いた西尾氏の城址に美濃代官岡田氏が築いた陣屋

所在地

岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪北新町
【アクセス】
岐阜市方面から国道303号線で北上し、右手に揖斐プラザを過ぎたところで2手に分かれるが、そこを右へと県道251号線へ入り700mほど進むと、右手にJAいび川揖斐があり、そこを右へ曲がり、しばらく東進すると「竹中医院」の案内板がある。竹中医院の東側に石碑があり、この付近が陣屋跡。
竹中医院:揖斐川町三輪1352-2-1、電話1585-22-5656

形状

平城、寛永8年(1632)以降陣屋

現状・遺構等

【現状】 宅地他
【遺構等】 石碑

満足度

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訪城日

2011/11/16

歴史等

曽根城主西尾光教は、慶長5年(1600)、関ヶ原の役が起こると、織田信秀が居城する岐阜城を、福島正則とともに先鋒をつとめて攻め落とし、さらに大垣城攻撃では本丸守将を説得して和議をすすめ、城明け渡しに成功した。
戦後、光教は戦功により1万石を加増され、美濃国大野・本巣・加茂・安八4郡内において3万石を領し、曽根から移り城を築き立藩した。
光教には子がなく、外孫の嘉教を養子に迎えて跡を継がせたが、元和9年(1623)に狂死し、嗣子もなくお家断絶となり、それに伴って城もすたれてしまった。
西尾氏断絶後は、幕領となり、これを支配したのは、美濃代官であった岡田善同である。善同は、寛永8年(1631)に新たに80石を加増されて、都合5千80石の領地を大野郡(現揖斐郡)に替え与えられ、西尾氏の城址に陣屋を築いた。
その後、岡田家は11代続き、明治を迎えた。
『「日本城郭大系9」、「藩と城下町の事典(東京堂出版刊)」より』

現況・登城記・感想等

揖斐陣屋は、今では、すっかり宅地や田園に埋もれてしまい跡形もなく、竹中医院の東側に小さな石碑が立つのみである。
(2011/11/16訪れて)

ギャラリー

現在の揖斐陣屋跡
明治2年(1869)の版籍奉還後、陣屋の土居は壊され、堀も埋め立てられて、その多くは水田となり、陣屋の境界も分からなくなってしまった。
IMG_7191

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