美濃 明智長山城(可児市)

本丸跡

明智光秀生誕?、そして斉藤義龍により落城・脱出の城?

別名

明智城

所在地

岐阜県可児市瀬田(光蓮寺の裏山)
光蓮寺:可児市瀬田718、電話0574-62-0572

形状

山城(標高175m)

現状・遺構等

現状:山林(史跡公園)
遺構等:曲輪、竪堀、模擬冠木門、模擬柵、石碑、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2008/09/24

歴史等

康永元年(1345)に美濃源氏・土岐頼兼が名字を「明智」と改めて、初代明智家棟梁となり、明智庄瀬田の地に明智城を築城した。
以来、約215年間、ここに山城を構えていたが、弘治2年(1565)に当時の美濃国の支配者・斎藤道三とその子義龍の争いに巻き込まれ、 義龍に攻められて落城した。
最後の城主であった明智光秀は、城の脱出に成功して明智家を再興したが、ここへは戻らず、彼の死後も、再びここに築城されることはなかった。
『現地登城口説明板より』

現況・登城記・感想等

明智長山城址へは、光蓮寺の東にある駐車場脇の大手口から登城するが、山頂部の広眺ケ丘団地脇の西出丸跡から入城することも出来る。 大して高い山でもないので、大手口から登城するのがお薦めである。大手口からは、散策ルートを気持ちよく登城できる。
明智長山城は明智光秀ゆかりの城ということで、大いに期待しての登城だった。
岐阜県(美濃)には『明智城』がここ可児市瀬田と恵那市明智町の2つあり、 どちらが明智光秀出生の城なのかそれを決定的に裏付ける資料は無い。
恵那市明智町は、、「大正村」と「明智光秀出生の地」の2枚看板で売り出すべく、もともと「明知町」だったのを、出生地を謳うために町名を 「明智町」と変えたようなところもあり怪しく、私は、確たる証拠があるわけではないが、ここ「長山城」の方がやや有力な気がする。
「歴史街道8月号(PHP研究所)・明智光秀3つの謎」の中で、作家・楠戸義昭氏は、 「私見を述べれば光秀は明智の本拠地だった長山城で育ったが、産声をあげたのは明知城ではなかったのか。 明知城下に光秀産湯の井戸が伝わり、 光秀の母親とされるお牧の墓があるからだ。」とし、「光秀の母は長山城に嫁ぎ、実家のあった明知城に戻って光秀を産んだ。 そのため誕生地が2ヶ所になったと考えるとこの謎は解ける」としている。しかし、この説もどうなんだろうか?
恵那市の明知城 (明智城)は、町を挙げて「光秀ゆかりの地」ということをアピールしていたが、ここ可児市は城跡の説明板(登城口と本丸跡の2箇所) に生誕の地と記されているだけで拍子抜けした。
さて、城址であるが、曲輪跡等が残るものの、これといった見応えのある遺構はない。しかし、団地開発が進む中、 これだけの中世山城の面影が残されているだけでも良しとするべきなのかも?
(2008/09/24登城して)

ギャラリー

城址めぐり散策コースの絵図(現地説明板より)

大手口
光蓮寺の東にある駐車場(写真左)脇の大手口から登城。写真中央の石畳の登城道を進むと、 すぐ上写真絵図が付いた説明板が設置されている。

大手門
さらに進むと大手門跡に模擬冠木門が建っている。

桔梗坂
大手門をくぐり、綺麗に整備された大手道(石畳の坂)を登って行く。 明智家の紋にちなんで名付けられたのであろうが、「桔梗坂」となっている。道の両側には曲輪群が配置され、右手に竪堀を見ることができる。 この道は実に趣きがあり、気持ちよく散策できる。

二の丸
桔梗坂を登り切ると二の丸跡(説明板絵図では出丸となっていたが)へと出る。二の丸の奥には本丸があり、 左側には馬場跡、さらにその左側には七つ塚がある。

馬場跡
二の丸より少し低く、途中左側には模擬柵が設置されている。

㊧七つ塚石碑、㊨七つ塚
斉藤義龍に攻め込まれ落城した際に戦没した明智七武将を葬った塚と云われる。
 

本丸
本丸は、こんもりとしており完全に平らな地形ではないが?

石碑
本丸の最も高い場所には、石碑が2基設置されている。桔梗の紋がかっこいい。
 

西出丸から本丸方面を
本丸と西出丸の間は堀切のような堀底散策道(写真左)で分かれている。右側は尾根道のようになっており、 模擬柵が設置されている。

西出丸跡
山頂部の広眺ケ丘団地脇の西出丸跡から入城することも出来る。

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