駿河 興国寺城(沼津市)

本丸を取り囲む巨大土塁

北条早雲(伊勢新九郎)初めての城主

別名

久窪城、根古屋城

所在地

静岡県沼津市根古屋
【登城口】
県道22号線と165号線が交差する根古屋信号の北側が城跡

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 山林・畑・東海道新幹線にて分断
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、天守台石垣、標柱、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2002/08/13
2009/06/27

歴史等

興国寺城は、伊勢新九郎(北条早雲)が、今川家の家督争いをおさめ、今川氏親を家督に据えた時の勲功の賞として与えられた城で、早雲が伊豆の堀越公方足利茶々丸を攻めた時出陣した城で、早雲旗上げの城である。
早雲が伊豆韮山城に移ってからは、重臣・富永三郎左衛門が守っていた。
この地は今川氏・武田氏・後北条氏の争奪の地で、その後、駿東郡一帯が今川義元の領国になるに従い、興国寺城も今川氏の支城となり、天文18年~同21年(1549~1552)にかけて、城地を拡張している。
次いで、永禄12年(1569)からは後北条氏の支城となった。さらに、元亀2年(1571)頃からは武田氏の勢力が伸びてきており、以後、天正10年(1582)までは武田氏の領有となっていた。従って、城址の現状は、北条早雲の城というより、武田流築城術の色彩が濃い。
武田氏滅亡後は、徳川家康の領するところとなり、家康の家臣・牧野康成、松平清宗らが城代となっていたが、家康が関東に転封され、秀吉の武将、中村一氏の家臣河毛惣左衛門尉重次が一時入っている。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦の後、再び家康の属城となり、慶長6年(1601)から三河三奉行・天野康景が一万石の大名として城主となったが、家臣である足軽が起こした事件の責任をとって(家臣を庇って)、出奔してしまい改易となり、城も破却された。
『静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)参照』

現況・登城記・感想等

興国寺城は、愛鷹山の舌状台地の先端部を利用して築かれた城で、北曲輪・本丸・二の丸・三の丸を連郭式に曲輪を配し、東・南・西の三方を深田を利用して防備を固めた縄張りとなっている。
今では、三ノ丸は宅地化してしまっているが、二ノ丸以上の城域はよく残っている。
中でも、本丸を取り囲む巨大な土塁は良好に残り、圧倒されるような迫力がある。そして、その中心部の最も高い部分の伝天守台には石垣も残っている。
また、天守台の奥(北側)にある空堀の規模は高さ約10m、上部幅約10mはある大規模なもので、これまた見応え充分だ。
その空堀の奥には北曲輪(通称:無名曲輪)があり、その奥(北側)のもう1本の空堀を新幹線が通っている。まさに諸行無常を感じる。
現在の城跡だと、それほどの要害には思えないが、当時は東・南・西の三方が沼地だったことを考えると、そう簡単には攻められなかったであろう。
今残る、城跡は、北条早雲時代のものというよりも、その後の、武田氏や江戸期に入ってからの改変の色彩が濃いが、早雲ファンは勿論、そうでなくとも、是非登城することをお薦めしたい城址である。
(2002/08/13、2009/06/27登城して)

ギャラリー

二の丸から本丸方面を
国道22号線から入城すると、二の丸へと出る。二の丸から本丸方面を眺めると、本丸を取り囲む巨大な土塁が見える。土塁の高さや長さは半端なのもではなく圧倒される。奥に見える北側土塁左側が西櫓台で本丸奥の森(写真右奥)の上が天守台である。また、二の丸や本丸の広さもかなりのものだ。
二の丸から本丸方面を

穂見神社
本丸北側(天守台下)には穂見神社が建ち、その右(東)には「北条早雲碑」、「天野康景碑」、標柱、説明板がある。
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北条早雲碑と天野康景碑
天野三郎兵衛康景は、岡崎三奉行の一人で、『彼是偏無し(どちへんなし)の三郎兵衛』と評される公平な人物で、関ヶ原合戦後に興国寺城主となった。
慶長12年(1607)、家来の足軽が城の修築用の竹木を盗もうとした盗人を殺害する事件がおき、これが天領の農民であったため、康景と代官の争いとなtt。家康側近の本多正純が康景に足軽を差し出すように勧めたが、康景は足軽をかばって城を棄て、行方をくらましたため、改易となり、興国寺城は廃城となった。
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【土塁】
(本丸北側の土塁)
本丸を囲む大規模な土塁は見事である。中でも、この北側土塁は城内側からでも高さ10mほどあり、幅も広く半端なものではない。写真奥が西櫓台、中央辺りの一番高い辺りが伝天守台。
本丸北側の土塁

(東側土塁)
この東側土塁から北側、さらには西側へと土塁が続いているのである。誠に、見事なものだ。土塁右側が本丸で、本丸の向こうに二の丸、さらには半分ほど宅地化されてしまっている三の丸へと続く。
東側土塁

(天守台上)
天守台上には多くの石が転がり、中には礎石のような石もある。写真左奥は北曲輪。
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(天守台石垣)
天守台城内側側面には石垣が残っている。藪で多少隠れてしまっているのが残念!
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(北曲輪から天守台を)
北側土塁でも他の部分よりやや高く、外(北曲輪)側へ少し出っ張っている。周りは深い空堀で守られている。
北曲輪から天守台を

(西櫓台)
北側土塁の西端部には櫓が建っていたようで、土塁上がやや広くなっている。
西櫓台

(西櫓台から本丸と西側土塁を)
この光景が、すっかり気に入って、しばらく西櫓台の上に居た。手前が本丸、奥の一段下が二の丸という位置関係がよく分かる。根古屋やその向こうの原の町までよく見える。興国寺城は、それほど高くはないが、根古屋の町から土塁がよく見えるわけだ!
西櫓台から本丸を

【空堀】
本丸北側の空堀は、高さ約10m、上部幅も約10mはあるであろう大規模なもので見応え充分だ。左上は天守台、右上は北曲輪。季節柄、かなり藪に覆われてはいるが、かなり整備がされ堀底まで降りて行くことが出来る。この時ばかりは、蛇やマムシも恐れず降りて行った。
空堀1

(西櫓台から見下ろす空堀)
右上は天守台、左奥は北曲輪。
空堀2

【北曲輪】
前回の登城時は、全く整備されておらず行けなかったのか、或いは、あまりの藪で空堀にさえ降りて行かなかったのか忘れたが、今回は、多少藪ではあったが許容範囲で、空堀に降りて、さらに北曲輪まで入って行った。
(北側東端の土塁上から)
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(北曲輪)
発掘調査によるものか?かなり凸凹が・・・。それは別に、北曲輪は概ね2段になっていたようだった。ちょっと藪が気になったが、何とか・・・(汗)。
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(土塁と空堀)
北曲輪の北側には、明らかに土塁と空堀跡と思われる地形が確認される。空堀は、かなり埋まってしまい、深さは1mほどであるが、幅は10mほどある。奥に見える土塁の向こうは新幹線が通っている。
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(空堀跡を東海道新幹線が・・・)
北曲輪の北側には、もう一本堀切で断ち切られていたようだが、今は新幹線が通る。まさに諸行無常!
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【舟付場跡】
本丸東側土塁の東側は、かつては舟付場であったようで、今も湿地帯のようで、所々に水溜りがある。その向こうの台地は清水曲輪。
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コメント

ペコちゃん(2011/10/07)

ここから、西の方にも、城がありませんでしたか?私の、母親の、実家所有の土地なのですが、城跡が発掘されたと聞きました。詳しい事は、知りませんがご存知ありませんか?現在、この土地は祖母の実家に売却済です。

タクジロー(2011/10/07)

ご訪問ありがとうございます。
勿論、この西も城域と思われます。
また、北曲輪の西の方もそれらしき地形でしたが、何分、藪がひどくて入って行けませんでした。
また、何か分かりましたら教えて下さい。
当城については、私もまた登城したいと思っています。
今後とも宜しくお願いします。

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