遠江 飯田城(森町)

主郭周囲を取り囲む土塁、土塁上に城址碑と説明板が

天方城主・天方道美が築いて移り住んだ平山城、戦国末期に徳川家康により落城

所在地

静岡県周智郡森町上飯田
【アクセス】
「崇信寺」の正面(南側)の細い農道を道なりに、4~5分ほど歩いて行くと、右手前方に飯田城跡が見える。寺の前から城跡まで幾つかの案内板があるので分かると思います。
尚、私の車のナビでは、寺の近辺の道が出ず、迷ったが、近辺にいた人に尋ねたらすぐ分かりました。比較的、有名なお寺のようです。お寺脇に駐車場があります。
崇信寺:周智郡森町飯田3052、電話0538-85-2878

所要時間

「崇信寺」から主郭部入口まで約5分

形状

平山城

現状・遺構等

【現状】 山林、畑
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、堀切、土橋、石碑、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2013/09/22

歴史等

飯田城は、応永年代(1394~1428)の初め頃に、天方城主・天方対馬守道美が築いたと伝わるが定かではない。
そして、応永8年(1401)に天方城を弟山城守に譲り、ここに移ったと伝わる。
永禄(1558~70)の末か元亀(1570~73)の初め頃、対馬守の子孫・大和守通泰の代に、天方城とともに徳川家康に攻められ落城し、以後廃城となった。この時、城主通泰は討死したが、庶子・重但(伊織)は三河国へ逃れ土着し、今も子孫が連綿と続いているという。
『「現地(飯田城跡と崇信寺前)説明板」、「日本城郭大系9」参照』

現況・登城記・感想等

浜松在住時代、葛城カントリーでは、ホームコースともいえるほどよくプレーをしたものだが、そのすぐ近くにこんな城跡があるとは全く知りませんでした( ̄ー ̄;。しかも、その飯田城跡は、想定していたよりも遥かに多くの遺構が良好に残る城跡でした。
中でも、主郭周囲をめぐる高い土塁は見応え満点です。また、土塁の最も高い部分には立派な石碑が立ち、そこから見下ろす主郭とその周囲をめぐる土塁の光景もすっかり気に入りました。
説明板の縄張図によると、主郭の外側にも出郭など多くの遺構が残っているようだが、強烈な藪の上、半ズボンでの登城です。とても突入していく勇気はありませんでした(/。ヽ)。
2011年に浜松市で開催された「第18回全国山城サミット」において、森町がサミットに加盟し、「飯田城」が加盟城郭となり、その飯田城を守ろうと、2012年に地元の方々が「保存会」を結成したそうで、城址の木の伐採や草刈などをして整備がなされたのだそうですが、それでも夏は止むを得ないのでしょうね。 また、草が枯れた冬にでも、きちんとした格好で登城し直しましょう(苦笑)。
(2013/09/22登城して)

ギャラリー

飯田城縄張図(現地説明板より)
00飯田城縄張図

崇信寺
崇信寺は、飯田城の北側に位置する。山内対馬守道美が応永8年(1401)に、城地の一部を寄進して建立したという。本堂裏手に山内対馬守道美、山内対馬守久通、山内大和守通泰の三代の墓がある。
11崇信寺

登城
崇信寺の正面(南側)の細い農道を案内板に従って道なりに歩いて行く。
13登城道

堀切
寺から3分ほど歩いて行くと、右手に堀底道が現れる。城の北東部を断ち切る堀切跡です。今では、飯田集落へと続く道になっています。
15堀切

全景
右手に堀切を見たあと、道なりに歩いて行くと、右前方に前面が切り立った崖の丘が見えてきます。飯田城跡です。崖は切岸のようです。如何にも城跡らしい姿です(*^_^*)。崖の下の土が剥き出しになっている辺りは腰郭で、その手前の凹んでいる部分は堀跡です。
17飯田城全景

城内へ・・・
19登城

主郭
階段を登って城内へ入ると主郭跡が現れますが、3方を土塁で囲まれた光景は見応え充分で、登城前には想像もしていなかっただけに感激もひとしおです。
23主郭

主郭周囲(東面から北面にかけて)の土塁
城内へ登る階段を登ると、この土塁上に着きます。この主郭周囲をめぐる土塁は、かき揚げ土塁ではなく、山を削り取ったような感じがする荒々しい土塁で、本当にかっこいいです(*^_^*)。土塁は高い所では、主郭内からでも7mほどありそうです。
24土塁

御前郭
主郭周囲の土塁の北東角部は広くなっており、御前郭と称されている。城の東側に対する備えの郭でしょうか。
25御膳郭

御前郭から腰郭を見下ろす
御前郭の下を見下ろすと、真下に腰郭、その向こうに堀跡が見えます。
26腰郭

城址碑
主郭北東部の土塁が最も高いところには、「山内対馬守道美公飯田城址」と刻まれた立派な城址碑が建てられています。
27城址碑

城址碑脇から主郭を見下ろす
土塁の最も高いところから見下ろす主郭とその周囲をめぐる土塁のこの光景がすっかり気に入りました。
29主郭

主郭南西下の空堀
縄張り図では、主郭南西下のこの場所は、「堀」となっているが、広い削平地になっており、一つの郭といった感じです。また、縄張り図によると、写真奥は大手口となっていたが、大変な藪の上、半ズボンでの登城なので突入するのを断念しました(/。ヽ)。
また、草が枯れた冬にでも、きちんとした格好で出直します(苦笑)。
35空堀

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コメント

史進(2013/11/10)

タクジローさん、ご無沙汰です
私も昨年ここを訪れました
でも境内が城跡だと思っていました
しっかりした遺構が残っているのですね
再訪したくなりました

タクジロー(2013/11/11)

史進さん
そうなんです。
実は、私も、近くへはしょっちゅう行っていたのですけど、全く知りませんでした。
1月末にも、また近くを通るので、私も再登城したいと思っています。
話は変わりますが、史進さんは凄い城跡まで行ってますね。まさか、伊那の権現城跡まで登城しているとは、本当に驚きましたw(*゚o゚*)w。

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