城内へ通じる一騎駆
遠江の古名族・横地氏の平安時代末期から室町時代まで400年間の本拠地
所在地
静岡県菊川市東横地
【アクセス】
東名高速「菊川インター」を降り、御前崎方面へ200mほど南下し、最初の信号を左折し3kmほど行くと、右側に大きな「横地城跡」 の案内板が見えます。そこを左折して九十九折の細い道を登って行くと、横地氏一族の墓があり、さらに進むと一面茶畑の平坦地になり、 藤丸館跡~隠し井戸~斯波武衛邸宅跡~のろし台跡~武衛原駐車場へと細いくねくね道が続きます。ずっと車一台がやっと通れるような道で、すれ違いが出来る様な所もほとんどなく、対向車が来たらどうしようとビクビクしながらの運転でした。
形状
山城(標高101.7m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、堀切、空堀、一騎駈、石碑、説明板
満足度
★★★★☆
訪城日
2007/06/17
歴史等
鎌倉時代から室町時代にかけて、遠江の古名族として武威を示した横地氏は、平安時代末期(11世紀中頃)に源(八幡太郎)義家と相良の土豪相良太郎左衛門光頼(実は維頼)との娘との間に生まれた長庶子・家長(家永)に始まる。
その後文明8年(1476)まで、約400年間一貫して遠江に勢力を張ってきた横地氏累代にとって、この横地はまさに懸命の地であった。
文明年間、横地氏は同族の勝間田氏と共に、今川氏に対抗して敗れ、両将共に討死した。横地氏は西軍山名氏方に属したため、斯波氏と通じ、反今川勢を鮮明にした。そのため今川義忠は大軍をもって横地城を襲い、文明8年(1476)2月勝間田城と共に落城したのである。
一方、戦に勝った今川義忠もその帰路、南山正林寺付近にて横地の残党により命を落としたため、今川家に相続争いが生じ、これをおさめた伊勢新九郎(北条早雲)が台頭するきっかけとなった。
その後、永正年間(1504~1518)に至り、今川氏の遠州掃討によって、横地氏は滅亡し、わずかに残る者も各地に四散した。
なお、この菊川の横地が全国の横地姓の発祥の地となっている。
藤谷神社蔵の系図より横地氏歴代を以下に略述する。
1代家永(家長)が横地氏始祖、2代頼兼、3代長宗、保元の乱で源義朝に従う。4代長重、源頼朝の挙兵に応じ、義経の鵯越・屋島・壇ノ浦に戦う。5代長直、鎌倉将軍のため掛川の御所造営、天竜川に浮橋を架け、毎年御弓始めの式につとめる。6代師重、7代師長、蒙古襲来時京都の禁裏警備、8代長国、笠置城攻めに勲功あり、北朝方に属した。9代長則、足利尊氏に従う。10代家長、山城守、今川了俊と共に九州各地に転戦、討死。11代長豊、上杉禅秀の乱に功あり。12代長泰永享の乱にて討死。13代長秀、応仁元年出陣、14代秀国、汐見坂にて討死。15代元国永正2年生まれる。16代元次(藤丸と同一人か)、武田信玄に仕える。17代義次、はじめ武田氏に、後徳川家康に従う。
『「静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)」、「現地説明板」より』
現況・登城記・感想等
横地城は東西400m、南北450mにわたる広大な城です。
「一城別郭式」の山城で、尾根の頂部を利用して「東の城」、「西の城」、「中の城」と呼ばれる3つの区域からなり、曲輪・土塁・堀切・土橋・一騎駆けなどの遺構が良好に残り見応えがあります。
「東の城」が主城とされ、城内最高所に位置し、東から西にかけて低いが土塁跡が残っています。また、北側下の腰曲輪には井戸跡が残り、堀切を隔てて北西及び西に延びる尾根があり、塁段状に腰曲輪が設けられています。
中の城は、2つの曲輪からなり、南側に土塁が良く残っています。
西の城には横地神社が祀られていますが、神社に登る石段脇に土塁、空堀、腰曲輪が確認出来ます。腰曲輪は、東と北側に伸びる尾根に段曲輪状に築かれているようです。
尚、駐車場から麓の登城口に至る農道に沿って、武家屋敷跡・城主居館跡などがありますが、いずれも雑木林や茶畑となっています。
(2007/06/17登城して)
ギャラリー
横地城鳥瞰絵図(現地案内板より)
【登城記】
横地城跡への登城道は2ヶ所ほどありますが、山の南西麓からは山腹の「武衛原駐車場」まで車で登って行くことが出来ます。九十九折の細い道を登って行くと、横地氏一族の墓があり、さらに進むと一面茶畑の平坦地になり、 藤丸館跡~隠し井戸~斯波武衛邸宅跡~のろし台跡~武衛原駐車場へと細いくねくね道が続きます。ずっと車一台がやっと通れるような道で、 すれ違いが出来る様な所もほとんどなく、対向車が来たらどうしようとビクビクしながらの運転でした。
横地氏一族の墓
藤丸館跡
横地氏最後の若君の屋敷跡ですが、現在は茶畑になっています。
隠し井戸
この草の中が深くなっており、その底に隠し井戸があるとのことですが、とても降りて行く気にはなれませんでした。
斯波武衛邸宅跡
応仁の乱の西軍の雄斯波武衛義廉の邸宅と云われ、この一帯に家臣団の住居があったと伝えられる。
一騎駆け
武衛原駐車場に車を停めて、しばらく深山幽谷といった中を歩きますが、道の下は絶壁です。崖下まで50m近くあるでしょう。 さらに進むと道は尾根道となり「一騎駈け」と呼ばれる細い尾根道に出ます。両側は絶壁で、ここからが狭義の城域でしょう。ここで、マムシの赤ん坊を踏みつけそうになりました(汗、汗・・)
尚、一騎駆けの名は、両岸が切り立った絶壁で、大軍を擁しても通過するには一騎づつしか渡れないので、この名が起きたといいます。
金玉落しの谷
この標柱を見て一瞬ビックリw(*゚o゚*)w。 この名の由来は「城兵の戦闘訓練時に兵は谷底に待機し、山上より太鼓を合図に金の玉を落し、兵は一斉に尾根を駆け上がり、さらに谷に下り、その玉を探し当てた者は、山に駆け上がって賞を貰った。」とのことです。な~んだ、要するに運動会みたいなものか(笑)。
西の城下の井戸
土塁上(西の城下)に井戸跡があり、今でも水を湛えています。井戸の中を覗こうと土塁に登ったら、蛙が井戸に飛び込んだのでビックリw(*゚o゚*)w。蛇でなくて良かった。ホッ!
西の城
西の城跡には、横地神社が鎮座しています。
西の城の土塁と濠
西の城(横地神社)に登る石段脇には土塁、空堀、腰曲輪が確認出来ます。
西の城腰曲輪
腰曲輪は、東と北側に伸びる尾根に段曲輪状に築かれているようです。
千畳敷
南麓から遊歩道を登って来ると千畳敷へ出ますが、この千畳敷を中心に城跡全体が県立自然公園として整備されています。
中の城
千尋の谷
中の城から本丸(金寿丸)への道も一騎駆けのように細く、特に左側の崖はまさに「千尋の谷」です。
東の城へ(金寿丸・本丸)
東の城の上にて
「東の城」が主城とされ、城内最高所に位置し、東から西にかけて低いが土塁跡が残っています。。
本丸からの景色
本丸北側下の腰曲輪
写真左に空堀、右奥の標柱の所に井戸跡があります。空堀を隔てて北西及び西に延びる尾根があり、塁段状に腰曲輪が設けられていますが、あまりの藪で突入は断念しました(;>_<;)