駿河 戸倉城(清水町)

本丸跡に建つ展望台と東屋

駿河と伊豆の境目の後北条氏の城、武田勝頼の誘いにより寝返り

所在地

駿東郡清水町下徳倉、本城山公園
【登城口】
登城口は3箇所ある。一つは、本城山南麓の龍泉寺(清水町下徳倉1920、電話055-931-6301)の山門の手前から。
あと二つは、本城山北麓の北口駐車場(15台ほど駐車可)、東麓の東口駐車場(4台ほど駐車可)から登る。どちらも、本城山麓付近へ行けば、 案内板があり、割り合い分かりやすいと思う。私は、北口駐車場から登った。

形状

山城(標高76.2m、比高約60m)

現状・遺構等

現状:本城山公園(山林)
遺構等:曲輪、土塁、堀切、土橋、説明板

満足度

★☆☆☆☆

歴史等

戸倉城は、戦国時代に北条氏綱(1486~1541)が築いたといわれる。
現在は駿河国に属しているが戦国時代には伊豆国であった。狩野川が伊豆・駿河の国境であったため、 氾濫して流路が変わるたびに伊豆国になったり駿河国になったりしたのである。
戸倉城は、後北条氏の前線基地として、伊豆と駿河の国境を守る重要な城であったので、城主には北条氏康の子・北条氏尭が任じていた。 氏尭は武蔵小机城主も兼務していたため、 重臣・松田憲秀の子・笠原新六郎秀範が城代として守備していた。
主として韮山城の出城的存在であり、 周辺部の城砦群(大平城・獅子浜城・長浜城・泉頭城等) と連絡しながら、武田軍と対決していたものであろう。
永禄10年(1567)以来、駿河は甲斐武田氏の占領下にあり、永禄11年(1568)から元亀2年(1571) にかけて武田信玄と後北条氏は、この戸倉城で戦った。
信玄が没して後も、その子・勝頼は駿東地方に進出して後北条方をおびやかし、天正8年(1580) には直線距離2kmほどの目と鼻の先の沼津に三枚橋城を築いて、 本拠として戸倉城を攻撃した。しばらく両軍は相対峙していたが、天正9年(1581)武田勝頼の誘いにのって笠原新六郎が寝返り、 戸倉城は武田方のものとなった。
天正10年(1582)、武田氏の滅亡とともに、戸倉城は再び後北条氏のものとなったが、天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、後北条氏は戸倉城を捨てて韮山城へ退いた。
『「現地説明板」、「歴史と旅・日本城郭総覧(秋田書店刊)」「静岡県古城めぐり(静岡新聞社刊)」参照』

現況・登城記・感想等

戸倉城は、狩野川が大きく蛇行し、柿田川との合流点付近でU字形に突き出し、3方を狩野川に取り巻かれた天然の要害地・ 本城山に築かれている。
現地(本丸跡)説明板やその他資料によると、「山頂部に本丸を置き、東側に袖曲輪・東側尾根に東曲輪を配し、同様に、 南と北西に伸びる尾根筋にも曲輪群を配置した縄張りとなっている。」とある。
城址は、本城山公園となって遊歩道が整備され、山頂部の本丸までは5分ほどで辿り着く。
しかし、本丸部分以外の曲輪群や堀切等の遺構は藪に覆われて、確認は甚だ難しい状態だ。
また、本丸はもとは土塁がめぐっていたそうだが、太平洋戦時に高射砲陣地が造られたため改変されてしまったようだ。
(2009/06/27登城して)

ギャラリー

縄張略図(本丸跡説明板より)

㊧登城口(北口駐車場から)、㊨登城道
本城山公園として遊歩道が整備され、5分ほどで本丸へ辿り着く。
 

本丸跡の㊧説明板、㊨展望台
本丸部分だけが整備されているが、その他の曲輪群は藪に覆われて、確認は甚だ難しい状態だ。また、 本丸はもとは土塁がめぐっていたそうだが、太平洋戦時に高射砲陣地が造られたため改変されてしまったようで、今は、展望台や説明板、 東屋などが建てられているだけだ。
 

展望台からの眺望
展望台からの眺望は良く、天気がよければ遠く富士山よく見えるそうだが、あいにくの梅雨空(恨)! 写真正面の細い川が柿田川で、その向こうの森が泉頭城址である。 展望台から周りを見下ろすと、この戸倉城が周りを狩野川に囲まれたU字地形の突端にあるのがよく分かる。

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