伊勢 治田城(いなべ市北勢町)

主郭北西隅の物見台跡

員弁地区で勢力を誇った治田氏の城、信長により滅亡。楠正具が居城したとも

読み方

はったじょう

所在地

三重県いなべ市北勢町麓村バラ門43-2~5
【アクセス】
国道306号線「麓村」信号から200mほど北上したところにある細い道を左折し200mほど西進すると左手に溜池があり、説明板と標柱が立っていますが、そこが登城口です。車は、西進する途中に、少し広くなっているところに停めました。

所要時間

今回の見学時間は27分ほどでした。

形状

山城(標高172m、比高約60m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、物見台、切岸、空堀、土橋、城址碑(標柱)、説明板

満足度

★★☆☆☆

訪城日

2014/05/16

歴史等

築城年代は定かではないが治田五兵衛によって築かれ、その子・治田山城守が継いだたと云われる。山城守は近郷でかなりの勢力を持っており、永禄4年(1561)には白瀬城主近藤吉綱を滅ぼし、白瀬郷を領したという。
永禄10年(1567)織田信長の北伊勢侵攻の際に、信長の将滝川一益によって攻められたが落城せず、その後、天正年間(1573~92)織田信長によって滅ぼされたという。
また一説に永禄年間(1558~70)には楠正成八代の孫という楠正具が居城し、永禄10年(1567)織田信長が治田城主楠正具を攻めたとあり、正具は長島願証寺に協力、石山合戦に参加したと伝えられる。その後、治田氏が居城したが、天正年間(1573~92)に織田信長によって滅ぼされたとある。
『日本城郭大系10より』

現況・登城記・感想等

治田城は、標高172mの通称「城山」に築かれている。
城の規模は、東西約130m、南北約150mで、山頂から中腹にかけて3段に削平して曲輪が築かれている。
城跡には、物見台と思われる土壇をはじめ、曲輪・空堀・土橋などが確認できるが、複雑な自然地形をそのまま利用しているようで、城の全体像(縄張り)は今一つよく分からなかった。
(2014/05/16登城して)

ギャラリー

治田城跡全景(北東側から) 
01治田城全景

登城口
説明板と標柱が立つ登城口から、溜池の土手の上を通って入城します。
03登城口

山麓へ
土手の上を渡り切ると城跡山麓へ出、そこには祠があります。そこから山麓北側の崖に沿った細い道(写真中央やや右)を西(右)の方へ進んで行きます。
05祠

登城道
道は、道とは言えないような狭い道で、左上に崖、右下は谷です。
07登城道

尾根
しばらく道なき道(細い道)を西の方へ進み、続いて左手上の尾根上を登って行きます。尾根の傾斜は結構急です。
09尾根

空堀
尾根の上を登って行くと、あまり深くはないが空堀へ出ます。そして、その空堀を渡って写真右上の急斜面を登ります。
11空堀

急傾斜(急斜面)を登る
これが、なかなかの急傾斜(急斜面)で、本来の道ではないかもしれません(苦笑)。
IMG_9183

曲輪跡
急斜面を登り切ると平坦地へ出て、そこが曲輪跡であることに気が付きます。但し、ほとんど整備はされていません。また、右手上にも曲輪がありそうです。
12曲輪

主郭
さらに一段上に登ると、広い平坦地へ出ます。ここが主郭のようです。
13主郭

物見台or櫓台
右(主郭北西隅)には物見台か櫓台跡と思われる約6m×6mの土壇が確認できます。
15物見台

段曲輪
主郭から東側下を見下ろすと、2段の平坦地が見えます。当城は3段に削平された曲輪で構築されているのが分かります。
17腰曲輪

虎口?
主郭南東へ歩いて行くと、「コの字状」の凹みがありますが、虎口のようです。
以上のように、城跡には多くの遺構が確認できましたが、今一つ、城の全体像(縄張り)が分かりませんでした。

19虎口

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コメント

駒井一正(2015/08/18)

記事を興味深くく拝読しました。先祖のお墓が伊勢治田にあり、楠七郎左衛門正具の子孫として伝えられています。治田城にも行ってみたいと思います。

タクジロー(2015/08/21)

駒井一正さま
楠七郎左衛門正具氏の子孫ですか。スゴイですね。
是非、治田城跡へ行ってみて下さい。

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