虎口付近の石垣
平家を祖とする戦国大名関氏一族の鹿伏兎氏の城
読み方
かぶとじょう
別名
牛谷城、白鷹城
所在地
三重県亀山市(旧関町)加太字市場(神福禅寺の裏山)
神福禅寺:加太市場1718-2
JR関西本線「加太駅」から線路を挟んで神福禅寺がある。加太駅前に駐車スペース有り。
形状
山城(標高264m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、石垣、井戸、標柱、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2007/11/24
歴史等
鹿伏兎城は、鈴鹿川一帯を支配した戦国大名関氏6代盛政の4男四郎盛宗(鹿伏兎氏祖)によって南北朝時代の正平(1346~70)の頃築かれた。はじめ「牛谷城」と呼ばれたが鹿伏兎氏7代定好の代に修築して鹿伏兎城と呼称を改め、城郭を整えた。
また、天文11年(1542)に定好の子定長が、時の将軍足利義晴に白鷹を献じたことから「白鷹城」とも称されるようになった。
その後、天正11年(1583)に9代定義は、豊臣秀吉の軍勢に敗れ、鹿伏兎城を捨てこの地を去った。
『現地説明板より』
現況・登城記・感想等
【過去最高に四苦八苦した登城に】
今回は、姪の結婚式の出席ついでに、その前日に家内と登城した。
JR関西本線「加太駅」のすぐ北側にある「神福禅寺」の裏山(北側)が鹿伏兎城跡である。見たところ、比高もせいぜい150mあるかないかといったところで、15分か20分ほどで登れるだろうと踏んだ。
ところがところが、これが大変なことに!!
お寺の西側の登城道を山中へと入って行くと、道が妙に荒れているような・・・!?。それでも井戸跡までは順調に。ところが、ここから道がない(汗)!!道を間違えたのかと思い、一旦お寺まで戻った。そしてお寺の方に聞くと、やはり間違ってはいないようだった。ただ、その方が「登れるかなあ~?!」と言ったのがちょっと引っ掛かったが・・・再出発~!!
しかし、井戸の所からやはり道が無い。ただ、井戸の奥に、沢というか崖崩れ跡のような所が登れるかもしれないということで、強引にその急な沢?を登り始めた。斜度は70度は大袈裟にしても、確実に45度はある。おまけに着地面が柔らかく一歩登ると、半歩、時には一歩、ずれ落ちてしまう。杖もきかない。ピッケルが欲しいところだ。おまけに捕まる木等もない。たまにあると、ほとんどが朽ちている。それでも何とか少しずつ登ったが、もうこれ以上は無理かなとも思った。危ない!!非常に危険だ!!戻ることも考えたが、戻るのも危ない。自分自身も厳しいが、家内は当然さらにキツイ。下山はどうしよう?何とかなるさ!等々・・・。
そうこうして50mほど登ると、左側7~8mほどの所に尾根があった。なんとかかんとか尾根の所まで辿り着いた。
ところが、この尾根がまたまた45度ほどの急坂。それでも沢?と較べれば楽なもんだ。その尾根を登りきると、さらに次の急坂。そして次のさらにきつい急坂(ここは以前、道があった形跡があった)を登り切ると平坦地へと着いた。
そして、その藪の中を進んで行くと、牛谷山の山頂に着いた。取り敢えずホッとした。結局、再度登り始めて1時間以上はゆうに掛かった。
さて、本当に城址はここで良かったのかなあ?と山頂の周りを一人で歩き廻ると、山頂下がかなりの規模の平坦地になり、周りが土塁で囲まれている。山城としては、かなり大規模(75m×65m)な曲輪跡である。
虎口も見つかり、説明板と文字が消えかけた「鹿伏兎(加太)城址」の標柱があった。そして、その近くには石垣も見つかり、その前に下りて行く道があった。
下山はこの道を降りて行ったが、かなり大回りで隣の山経由で降りて行くこととなった。しかも降り切った所は、全く別の線路の所へ出た。出発地からは500mほども西側であった。結局、本当の登城道は最後まで分からなかった。
多分、台風か何かで崖崩れがあり、道が無くなったのであろう。それで、お寺の方のあの言葉「登れるかなあ~?!」かと納得した。
それにしても大変な目に遭った。今までの登城で最高に厳しい登城であった。家内は、体中キズだらけになり、後で散々・・・。
(2007/11/24登城して)
ギャラリー
鹿伏兎城跡全景(手前の寺は神福禅寺)
JR関西本線「加太駅」のすぐ北側にある「神福禅寺」の裏山(北側)が鹿伏兎城跡である。見たところ、比高もせいぜい150mあるかないかといったところで、15分か20分ほどで登れるだろうと踏んだ。ところがところが、これが大変なことに!!
鹿伏兎氏の墓
神福禅寺は鹿伏兎氏の菩提寺で、松平氏により墓が建立されてた。墓の前を通って登城します。
登城道
お寺の西側の登城道を山中へと入って行くと、道が妙に荒れているような・・・!?。
井戸(石積みがしっかりしているが、一部破壊ウーン!?)
それでも井戸跡までは順調に。ところが、ここから道がない(汗)!!道を間違えたのかと思い、一旦お寺まで戻った。そしてお寺の方に聞くと、やはり間違ってはいないようだった。ただ、その方が「登れるかなあ~?!」という言葉がちょっと気になったが、再出発~!!
沢(崖)登り (登り始めの崖&50mほど登った所)
井戸の所からやはり道が無い。ただ、井戸の奥に、沢というか崖崩れ跡のような所が登れるかもしれないということで、強引にその急な沢?崖?を登り始めた。斜度は60度は大袈裟にしても、確実に30度以上はある。おまけに着地面が柔らかく一歩登ると、半歩、時には一歩、ずれ落ちてしまう。杖もきかない上、捕まる木等もほとんどない。たまにあると、ほとんどが朽ちている。それでも何とか少しずつ登ったが、もうこれ以上は無理かなとも思った。非常に危険だ!!戻ることも考えたが、戻るのも危ない。自分自身も厳しいが、家内は当然さらにキツイ。下山はどうしよう?何とかなるさ!等々・・・。
最初に何とか辿り着いた尾根
そうこうして50mほど登ると、左側7~8mほどの所に尾根があった。なんとか尾根の所まで辿り着いた。ところが、この尾根がまたまた30度以上の急坂。それでも沢?と較べれば楽なもんだ。
その尾根を登りきると、さらに次の急坂。
最後の急坂
そして次のさらにきつい急坂(ここは以前、道があった形跡があった)を登り切ると平坦地へと着いた。
山頂平坦地
そして、その平坦地の藪の中を進んで行くと、牛谷山の山頂に着いた。
牛谷山山頂
取り敢えずホッとした。結局、再度登り始めて1時間以上はゆうに掛かった。山頂が264mと書かれたものと263mと書かれたものがあるがどっちが本当なんだ~??
曲輪跡
さて、本当に城址はここで良かったのかなあ?と山頂の周りを一人で歩き廻ると、山頂下がかなりの規模の平坦地になり、周りが土塁で囲まれている。山城としては、かなり大規模(75m×65m)な曲輪跡である。
虎口
虎口も見つかり、説明板と文字が消えかけた「鹿伏兎(加太)城址」の標柱があった。
石垣
そして、その近くには石垣も見つかり、その前に下りて行く道があった。
土橋
下山はこの道を降りて行ったが、かなり大回りで隣の山経由で降りて行くこととなった。この道には、このような土橋に多く出会った。
一騎駆け?
また、一騎駆のような細い尾根道も多かった。写真両側は絶壁である。
牛谷山の西の山から撮影
かなり大回りでの道で、気が付いたら隣の山に来ていた。
やっと下山を
降り切った所は、全く別の線路の所へ出た。出発地からは500mほども西側であった。
結局、つまるところ・・・!?
写真左端に見える奥の山を経由して下山した。結局、本当の登城道は最後まで分からなかった。多分、台風か何かで崖崩れがあり、道が無くなったのであろう。それで、お寺の方のあの言葉「登れるかなあ~?!」かと納得した。それにしても大変な目に遭った。今までの登城で最高に厳しい登城であった。家内は、体中キズだらけになり、後で散々・・・。