主郭への土橋
越前朝倉氏一族の朝倉氏により築城、保々西城の支城
別名
朝倉城
所在地
三重県四日市市市場町字的場(敬福寺の南西100mほどの所)
敬福寺:市場町1623、TEL059-339-0809
形状
平城
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、虎口、土橋、空堀、井戸、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2008/05/07
歴史等
朝倉氏により、室町時代の初期末頃に保々西城に先行して築城されたものである。
その後、保々西城の支城として機能した。朝倉氏は平維盛の子孫で、同族に茂福城の茂福氏一属がある。
天正2年(1574)、織田信長の伊勢侵攻の際、落城したとあるが、本城の保々西城が永禄11年(1568)に落城したのに、支城のであるこの城が、それから6年も存在したのは不自然な感じもするのだが・・・?
『「現地説明板」、「茂福城址説明板」等参照』
現況・登城記・感想等
敬福寺の南西100mほどの竹薮が市場城址であり、東隣が墓地になっています。
鬱蒼とした竹薮を見て、まずは虫除けスプレーをたっぷりかけて向かいました。
竹薮(城址)の南東にある虎口へと向かうと、いきなり土塁が囲む外枡形と思われる虎口が現れます。
そこを中へと入って行くと高々と築かれた土塁とかなり深い明瞭に残る堀が現れ、堀には土橋が架かっています。その光景は本当にかっこいいです。
土橋を渡ると、そこも土塁が囲み枡形になっています。土塁下にはぽっかりと穴があいた井戸跡が残っていました。
主郭内へと入って行くと、竹が密集している上、倒竹も多くて本当に歩きにくい!それでも何とか入って行こうと思ったのですが、やたらと蜘蛛の巣がまとわりつき、さらには薮蚊の大群が・・・。虫除けスプレーが全く効きません。
そこで、今度は土塁上へと登ると、土塁と堀が屏風折れになっているのがよく分かり、その姿が実にかっこいい。ただ、ここでもやたらと薮蚊が集まってきて、遂に退散!!
尚、説明板の図を見ると、北側虎口が大手のように見えますが、こちらはさらに強烈な藪で、とても入って行けるような状態ではありませんでした。
ここもは冬に登城すべき城址ですね。いつかまた、冬季に再登城したいと思います。
(2008/05/07登城して)
ギャラリー
市場城の位置と縄張図
敬福寺の南西100mほどの竹薮が市場城址であり、東隣が墓地になっています。
登城
墓地の北西角(上写真の現在地)に案内板があり、そこから南に向かって登城。鬱蒼とした竹薮を見て、まずは虫除けスプレーをたっぷりかけて、竹薮(城址)の南東にある虎口へと向かいます。
外枡形?
いきなり、外枡形のように土塁が囲む虎口のようになっている。
土橋
そこを中へと入って行くと、高々と築かれた土塁とかなり深い明瞭に残る堀が現れ、堀には土橋が架かっています。その光景は本当にかっこよく、感動ものだと言っても大袈裟ではありません。
土橋横の空堀と土塁(左側が主郭土塁)
実に良好に残っています。また、折れがあるのがよく分かります。
東南の虎口
土橋を渡ると、そこも土塁が囲み枡形になっている。石碑後ろに井戸跡が。
井戸跡?
主郭内
主郭内へと入って行くと、竹が密集している上、倒竹だらけで本当に歩きにくい!それでも何とか入って行こうと思ったが、やたらと蜘蛛の巣がまとわりつき、さらには薮蚊の大群が・・・。虫除けスプレーが全く効かない。止むを得ず、退散!!
土塁上
土塁上へと登ると、土塁と堀が屏風折れになっているのがよく分かり(写真ではほとんど分からないが)、その姿が実にかっこいい。ただ、ここでもやたらと薮蚊が集まってきて、遂に退散!!
城址碑
土塁上には城址碑が立っていました。
北側虎口
説明板の図で見ると、北側虎口が大手のように見えるが、こちらは強烈な藪で、とても入って行けるような状態ではなかった。