東曲輪群と出丸群を断ち切る堀切に架かる土橋
三好長慶が摂津の拠点として畿内八ヶ国を支配した城
別名
芥川城、原城、三好山城
所在地
大阪府高槻市原、三好山
【アクセス】
老人ホーム(高槻黄金の里)の西側の道を200m程北上した右手に登城口があります。この付近に1台何とか駐車できますが、老人ホーム西側の道路端に駐車して歩くことをお薦めします。
高槻黄金の里:高槻市黄金の里1-14-8、電話072-687-3681
所要時間
登城口から主郭まで約25分、今回の総見学時間は1時間10分
形状
山城(標高182m、比高約70m)
現状・遺構等
【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、堀切、石垣、土橋、石碑、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2015/06/07
歴史等
芥川山城は、永正年間に、室町幕府の管領・細川高国配下の能勢氏が西国勢と北摂武士団への備えとして築いた城砦にはじまるとされる。
しかし、能勢氏は、大永6年(1526)に高国の重臣香西元盛と細川尹賀との不和に端を発した闘争で、細川晴元方に降伏開城し芥川山城を去ることとなった。
その後、しばらく芥川山城の名は史上から消えるが、天文2年(1533)に細川晴元の支配下に入った。
しかし、それも永くは続かず天文16年(1547)には、三好長慶が晴元を追い落とす格好で奪取、この地に芥川孫十郎を城主とした。
ところが、孫十郎は晴元に呼応し、長慶とその臣松永久秀を討とうとしたが、長慶によって芥川山城を攻められて降参し、阿波へと落ちて行った。
その後、芥川山城へは長慶父子が入り、永禄3年(1560)に飯盛山城に移るまでの間、当城を摂津における拠点とし、畿内近国八か国を支配した。
長慶の後、その子義興が城主になるが、永禄6年(1563)に22歳の若さで没し、その翌年(1564)、今度は松永久秀の讒言によって長慶が弟・安宅冬康を殺害するや、三好氏の没落が始まり、長慶も同年7月飯盛山城にて没した。
その後、芥川山城には三好三人衆の一人・三好長逸が入っていたが、永禄11年(1568)、信長の摂津進攻により三好一族は放逐された。
そして、芥川山城へは織田方の和田惟政が入城したが、翌年高槻城へ移り、芥川山城は廃された。
『日本城郭大系12他参照』
現況・登城記・感想等
今では、すっかり大阪や京都のベッドタウンとして開発され尽くしていると思っていた高槻市にこれほどの山城跡が残っているのは驚いたと同時に嬉しかったですね。
芥川山城は、高槻市街北郊の通称三好山に位置し、北・西・南の三方を芥川で囲まれ、それに臨む急崖の上に築かれた、まさに天然の要害です。
縄張りは、最高所に主郭を置き、山塊上約500m四方に展開する山城で、主郭を中心とした西曲輪群と鞍部を挟んだ東側から南へ延びる尾根筋の出丸曲輪群、更に、その東方の堀切に架かる土橋の東側に広がる東曲輪群の3つに分かれます。
曲輪、土塁、堀切、土橋などの遺構が良好に残り、大手道脇には大きな石が使用された石垣の一部まで確認できます。
ただ、縄張図も持たずに登城した上、草木の元気な季節で薮もすごくて、多くの遺構を見落としたのが残念です(/。ヽ)。また、いつか再登城することにします。
(2015/06/07登城して)
ギャラリー
芥川山城縄張図(山麓の説明板より) ~画面をクリックにて拡大~
登城口
老人ホーム(高槻黄金の里)の西側の道を200m程北上すると、右前方へ向かう登城道があります。登城口脇に「三好山へ40分」の案内板が立っていますが、実際は25分ほどです。
東曲輪群の石垣
登城口から、左手に段々畑を見ながら10分ほど歩いて来ると、右手に大堀切のような地形が現れ、奥側には竹林の間に石垣群が見えます。この辺りからが東曲輪群のようで、石垣の上には塁段になった平坦地が確認できます。尚、ここに来るまでに道端右に石垣がありますが、それは後世のもののようです。
東曲輪群西端の曲輪への虎口
さらに4~5分ほど歩いて行くと、右手上に虎口があります。東曲輪群西端の曲輪への虎口です。曲輪内は、草茫々でしたが、奥の方へ入って行くと、幾つもの墓がありました。江戸時代のもののようでした。
東曲輪群西端の曲輪周囲の土塁
曲輪周囲には、曲輪内からの高さが1mほどの土塁が設けられています。
竪土塁
東曲輪群西端の曲輪と登城道を挟んで反対側には、明瞭な竪土塁が斜面下へ延びています。
大堀切
東曲輪群西端の曲輪の西側は大堀切が設けられています。上部幅10mはあるでしょう。
土橋
大堀切には、土橋が架かっています。これぞ「ザ・土橋」といった明瞭な土橋です。写真奥に見えるのは、出丸群への虎口です。
出丸群への虎口
土橋を渡ると、出丸群への虎口が迎えてくれます。虎口は、防御のためにかなりうねって築かれています。
大手道を登り切ったところに立つ城址碑
出丸群への虎口から、しばらく進むと鞍部へ出ますが、そこに「城山城跡」と刻まれた石碑が立っています。石碑の左下に傾斜のきつい細い道があり下りて行くことができます。この細い道が大手道です。
大手道脇の石垣①
石碑のところから大手道を50~60mほど下りてくると、右手斜面に石垣があります。写真の右手前と左奥に石垣が見えます。石垣は70cm×80cmほどもある大きな石が5~7段ほど積み上げられています。
大手道脇の石垣②
石垣は、大変な急斜面に築かれ、上から圧し掛かってくるような迫力があります。石垣は、斜面の両側にあり、中央部分は崩れたのでしょうか、斜面下に大きな石が幾つも転がっています。一応、能勢氏時代のものとされているようですが、これほど大きな石を、しかもこんな急斜面に築く技術があったか疑問です。
主郭部へ
石碑のところへ戻り、主郭へ向かうと、右手上前方に主郭部が見えて来ます。
主郭部下の腰曲輪
左手に幾つかの曲輪を見ながら主郭部下の小さな腰曲輪へ到着すると、木々が伐採されていました。当城跡は個人所有なのだそうですが、所有者の許可のもとにボランティアの方が整備しているのだそうです。一緒に登城した増っさんは、何故かボランティアの方に城跡についてではなく「ダニ」について、いろいろ尋ねていました(笑)。その方の話によると、当山にはイノシシやシカが多く住んでいるとのことです。そして、イノシシなどが住んでいるということは「ダニ」も多いとのことでした。
主郭部下の腰曲輪からの眺望
当城跡は木々が鬱蒼と繁っているため、ほとんどの場所から眺望が開けていませんが、この腰曲輪からはなかなかの見晴らしです。
主郭を
腰曲輪のすぐ上が主郭です。腰曲輪から主郭周辺一帯は、木々が取り払われていて、如何にも城跡らしいです。
主郭部への虎口
主郭部への虎口は切通し状で明瞭です。
本丸を
主郭部への虎口から登ると、正面に天守台のような台地が見えますが、それが本丸です。
本丸
本丸には「城山城趾」と刻まれた石碑が立っています。主郭下から本丸を見た時には天守台のような感じで狭いのかと思いましたが、かなりの広さがあります。