摂津 大坂城(大阪市)

『大坂夏の陣図屏風』に描かれた豊臣時代の天守をモデルに再建された天守

石山本願寺跡に秀吉が築城、大坂の陣で落城後、徳川秀忠が西国大名を使い再建

別名

錦城、金城、浪華城

所在地

大阪府大阪市中央区大坂城1-1、大坂城公園

形状

平城

現状・遺構等

【現状】大坂城公園 【国指定特別史跡】
【遺構等復興天守、金蔵、桜門(高麗門)、二の丸の一番櫓と六番櫓、西の丸の千貫櫓と乾櫓、煙硝蔵、大手門(枡形門)が現存、本丸と二の丸の石塁と堀が完存、石碑、説明板

満足度

★★★★★

訪城日

1995/08/03
1996/04/21
1997/03/02
2006/01/16

歴史等

大坂城の地には、戦国時代に石山本願寺があり、大坂御坊と呼ばれた。御坊とは、当時一向宗と呼ばれた浄土真宗の門徒が拠点とした場所のことである。一向宗は、武器を持って武士と戦って独自の共同体を築いていた。大坂御坊は、法主顕如を戴いて、元亀元年(1570)から11年にわたって織田信長の大軍と死闘を繰り返した末、天正8年(1580)に紀州に退去し、この時、焼失した。
信長は、御坊跡に築城することを考えていたが、御坊攻略の2年後の天正10年(1582)、本能寺の変で斃れた。
信長の死の翌年の天正11年(1583)、豊臣秀吉が賤ケ岳の合戦で柴田勝家を破るや大坂城築城に取り掛かった。その城は、これまでの日本の城の概念を一変させる、広い本丸をさらに壮大な二の丸、三の丸が取り囲む輪郭式の大城郭であった。中でも、秀吉が最も自慢したのが天守である。大天守は、外観5層で、内部は7層とも8層とも言われ、外観には蒔絵や彫刻をふんだんに施し、瓦にも黄金をふんだんに用いて装飾していた。天正14年(1586)に天守を案内された大友宗麟は「実に奇特、神変ふしぎ、三国無双」とその驚きを伝え、天守の橋数(階層)9つと言っている。このことからは、下の石蔵を入れると10階ということになる。ただ、あまりの景観に階数を間違えるのか、長宗我部家臣は9層、毛利家臣は7重と述べており、多数意見だと8階ということである。
そして秀吉の死去までに本丸を囲むように二の丸・総構えが建設され、さらに二の丸と惣構とのあいだに三の丸を造成する工事は秀吉の死の翌年まで続けられ、三重の堀と運河に囲まれた堅固な大坂城が完成した。
秀吉の死後、関ヶ原合戦で天下を掌握し幕府を開いた家康にとって、目の上のたんこぶ的存在である大坂城の豊臣氏を、方広寺の鐘銘など言い掛かりをつけて追い詰めていった。そして、慶長19年(1614)に大坂冬の陣が発生した。その時、寄せ集めの浪人衆を主力とする豊臣軍であったが、大名たちを召集して、倍の兵力を有する徳川軍を惣構の内に入れることなく、城を守りぬいた。
(本当かどうか知る由も無いが)かつて秀吉は大坂城を陥落させる方法は、大軍をもって城を数年間包囲し、兵糧攻めにするか、一旦和睦をして城の堀を埋め、塀を壊したうえで攻めるしかないと家康に豪語したという話がある。家康は後者を採用し、幕府方の策略によって、総構え、三の丸に続いて二の丸の堀までが埋め立てられた。豊臣方が怒り狂っても後の祭である。本丸だけの裸城となった大坂城は、翌年の夏の陣であっけなく落城焼失し、淀殿と豊臣秀頼は城内山里曲輪の一角で自害し豊臣氏は滅亡した。
大坂城を我が物にした徳川幕府は、既に堀を埋めていた城をさらに徹底的に破壊し、埋め尽くし、嵩上げしたたうえで、その上巨石をふんだんに使った石垣を築き上げ築城した。これが現在に残る大阪城である。工事には西国・北国の大名たちが動員された。
徳川氏の大坂城は、城郭の広さは豊臣時代の4分の1になりスケールは小さくなったが、天守は外観は同じ5層であったが、高さは豊臣氏の天守を推定で15m以上も高く越えるものであった。しかし天守は寛文5年(1665)の落雷で焼失し、以後、江戸時代をとおして再建されることはなかった。
明治元年(1868)鳥羽・伏見の戦いで、幕府軍は大坂城に敗走した。しかし将軍徳川慶喜は籠城せず、その夜、側近だけ引き連れて、船で江戸に逃走し、主君を失った幕府軍は散り散りに大坂城から去っていった。この際の混乱で、城内の主要な櫓はほとんど焼失してしまった。
現在の天守閣は、昭和6年(1931)大阪市民の熱意により、江戸幕府が再築した天守台石垣の上に、『大坂夏の陣図屏風』に描かれた豊臣時代の天守をモデルに鉄筋コンクリート造り地上55mで再建されたものである。太平洋戦争では、ほとんどの建造物が破損したなか、幸いにもこの天守閣は焼け残った。
最近では、平成7年(1995)から9年(1997)にかけて大規模な改修がされた。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「日本の百名城・中山良昭著(朝日文庫刊)」、「現地案内板」参照』

現況・登城記・感想等

大坂城と云えば、やはり豊臣秀吉であろう。とにかくスケールがでかい。秀吉時代の大坂城は徳川時代の4倍もの広さだというから畏れ入る。
尤も、現在の城郭の形は徳川時代のものとは云いながら、幕府が威信をかけて、西国大名を中心に動因して築城しただけに「すごい!」の一言に尽きる。
特に、城郭全てを覆っていると云っても過言ではない石垣群と本丸・二の丸を取り囲んだ広い堀はすごい。
また、この城を廻って、いつもながら気になるのは「蛸石」を初めとした多くの巨石と山里曲輪に転がっている大名の紋の刻印入りの石である。如何に西国大名が競って築城に協力したかが窺い知れる。しかも、それら刻印入りの石がむなしく転がっている場所が、淀君と秀頼の自刃の場所「山里曲輪」であるというのも、何かの因縁だろうかと考えてしまう。
現在、城内には復興天守をはじめ現存の大手門、焔硝蔵、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、金蔵、金明水井戸屋形、桜門など多くの遺構が残っており、国の重要文化財に指定されているだけあって、どれも立派なものであり見応えがある。よくぞ明治維新や第二次世界大戦の中を生き抜いてくれました。
今回の登城は今までより、じっくり見て廻ったつもりであったが、それでもかなり見落としが多かった。次回来る時は、見て廻る所を全てメモしてきて、一日仕事で順番に廻ったほうがいいかも。この城は何度来ても楽しく見て廻れる城である。
(2006/01/16登城して)

ギャラリー

大坂城絵図 ~クリックにて拡大画面に~
大坂城案内図

青屋門脇の北外堀越しに天守を望む
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東外堀
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青屋門
元和6年頃創建された。この門は昭和20年(1945)8月の大空襲にあい大破したが、昭和45年(1970)に大阪市が残材をもって現状のものに復元した。青屋門の由来は、本願寺時代、この門の付近に青屋町があったことによると推定される。
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内堀に架かる極楽橋手前から天守を
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北西の内堀越しに天守を望む ~画面をクリックにて拡大画面に~
私は、北西内堀の外側から望む、この「折れの重なる石垣(屏風折れ)とその上に見える天守の姿」が一番好きなのだが、逆光で写真が撮れなかったので、古い(9年前)写真をスキャンして掲載しました。
内堀越しに天守を

秀頼・淀君自刃の地(於山里曲輪)
極楽橋を渡ると山里曲輪(現刻印石広場)へ出る。山里曲輪は秀頼と淀君が自刃したところであり、その石碑が建てられ花が添えられていた。
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山里曲輪跡に並べられている大名刻印入りの石
山里曲輪は、豊臣時代には山里の風情を保つ松林や桜、藤の木などの木々が繁りいくつかの茶室が建っていた。
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天守閣(本丸から)
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金蔵
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金明水井戸屋形
水面まで約33mの深さがあり、井戸枠は1箇のくりぬき石で、外部の水流しは4枚の大石を合わせて敷き詰めている。
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天守閣上から本丸と大阪市街を
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天守閣上から内堀と大阪市街を
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蛸石(城内最大の石)
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大坂城の巨石一覧 ~画面をクリックにて拡大画面に~
大坂城巨石一覧

桜門
豊臣時代にも本丸の正門は桜門と呼ばれていた。桜門は徳川時代の本丸再築の寛永3年(1626)に築かれたが、明治維新の際に消失した。現在のものは、明治20年(1887)に再築されたものである
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石山本願寺推定地
奥に見えるのは六番櫓(現存)で、創建は寛永5年(1628)で二の丸の南側を固める隅櫓のひとつ。
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千貫櫓
大手口を守る重要な隅櫓。元和6年(1620)に創建されたもので、城内の建築物の中で、乾櫓とともに最も古いものである。名前の由来については、織田信長の石山本願寺攻めの時、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、あの櫓さえ落とせるなら、銭千貫文与えても惜しくないと話し合ったというエピソードが伝えられている。
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多聞櫓
大手門枡形の石垣の上に建ち、二の丸への出入り口となる大門を組込んだ構造をしている。この櫓は頭上に槍落しの装置があり、出窓を構え矩折に続櫓が附設されている。この櫓は、現存する櫓の中で最大の遺構である。寛永5年(1628)に創建され、天明3年(1783)に落雷で消失し、嘉永元年(1848)に再建された。
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大手門
大坂城は、大手口に大手門、搦手口は東に玉造門、西北に京橋門、北に青屋門を備えていた。創建は元和6年(1620)で、天明3年(1783)に落雷によって破損し、現在のものは嘉永元年(1848)に大掛かりな補修をしたものである。
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コメント

お洒落なオヤジ(2008/01/29)

個人的には姫路城が好きですが、日本一?は大阪城でしょうか?

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