復元された虎口石垣
木下勝俊が山城の篠ノ丸城を廃し築いた平城、江戸中期以降は陣屋として残る
読み方
やまさきじょう
別名
鹿澤城、近世山崎城
*山城の篠ノ丸城と平城の山崎城は、混同して呼ばれることも多く、この混乱を避けるために、平城と山城、及びそれぞれが機能した時代から単に「近世山崎城」、「中世山崎城」とすることもある。
所在地
兵庫県宍粟市山崎町鹿沢、本多公園(本丸)・山崎小学校(二の丸)
山崎小学校:山崎町鹿沢82、電話0790-62-1131
形状
平城(江戸中期より陣屋)
現状・遺構等
【現状】 本多公園、山崎小学校ほか
【遺構等】 移築門、土塀、石垣(復元?)、石碑
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2011/11/12
歴史等
天正15年(1587)、龍野城から移封された木下勝俊は、山城の篠ノ丸城を廃して、平城としての山崎城の築城を開始したが、文禄3年(1594)に若狭小浜(後瀬山城)に移封となり、その後は豊臣秀吉の直轄地となった。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、池田輝政が播磨52万石の太守となり、山崎城は、その重臣中村殿助に預けられた。
輝政の死後、池田領が分割相続され、元和元年(1615)山崎城には輝政の四男輝澄が宍粟郡3万8千石を領して封ぜられた。さらに、寛永8年(1631)には佐用郡も併領したので、山崎城は山崎藩6万1千石の本城となり、城下は繁栄し、城下町も整備されが、同17年に御家騒動が起こり、改易された。
代わって、和泉岸和田から(松井)松平康映が入封して5万石を領したが、慶安2年(1649)に石見浜田へ転封となり、備前児島から池田恒元が3万石で入封した。
恒元のあと政周・恒行と継ぐが、恒行が延宝6年(1678)に没すると継嗣がなく山崎池田家は断絶した。
翌7年、大和郡山城主本多氏の分家本多忠英が1万石を領して移封してきた。その後、本多氏は9代続いて明治維新を迎えているが、格式は「陣屋」であったため、在来の山崎城の規模は縮小され、旧本丸だけが陣屋として使用することが認められたようである。
『ひょうごの城(神戸新聞総合出版センター刊)より』
現況・登城記・感想等
山崎城跡は、本丸部分が本多公園、二の丸他の曲輪跡は山崎小学校などの敷地となり、城の面影はほとんどないが、城跡敷地の南側を流れる小川と石垣の一部は往時のものだろうか、僅かに面影があるような・・・?
本多公園内にある歴史民俗資料館の東側に唯一の遺構である紙屋門が移築されているが、訪問時は残念ながら修築中だった。
また、公園の南西部に虎口石垣が復元?されていたが、あまりに新しくて綺麗すぎて、ちょっと違和感が・・・。
(2011/11/12訪れて)
ギャラリー
移築城門
本多公園内にある歴史民俗資料館の東側に唯一の遺構である紙屋門が移築されているが、訪問時は残念ながら修築中だった。
城址碑
歴史民俗資料館前の庭に、「鹿澤城本丸跡」と刻まれた立派な石碑が建っている。
本多公園北側の石垣と堀跡?
公園の周囲には石垣があるが、往時のものではなさそうだ。石垣の前には堀跡のような・・・?
復元された虎口石垣
公園の南西部に虎口石垣が復元?されていたが、あまりに新しくて綺麗すぎて、ちょっと違和感が・・・。
公園南側の石垣
城跡敷地の南側を流れる小川と石垣の一部は、積み方が違うが往時のものだろうか、僅かに城の面影があるような・・・? 石垣の前の水路は、往時の堀跡のようだ。