播磨 置塩城(姫路市)

南西曲輪群の大石垣

嘉吉の乱にて滅亡後、再興赤松氏の本拠

所在地

兵庫県姫路市夢前町宮置
【アクセス】
姫路市街から県道67号線を20km近く北上すると、右(東)側に置塩小学校があります。置塩小学校を過ぎて200~300mほど北上したところを右折して県道80号線へ入り、400mほど西進すると夢前川に架かる橋があります。その橋を渡り夢前川に沿って800mほど北上すると右手に登城口があり、広い駐車場があります。
置塩小学校:姫路市夢前町宮置235、電話079-335-2252

所要時間

登城口から茶室跡まで約35分、今回の見学時間は2時間20分。

現状

山城(標高:370m)

現状・遺構等

現状:山林 【国指定史跡】
遺構等:曲輪、土塁、石垣、空堀、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2006/11/25

歴史等

赤松氏は円心(則村)に至って、足利尊氏のもと播磨・備前・美作3国の守護を兼ねて大いに家名を上げた。しかし、嘉吉元年(1441)6月24日、円心から3代後の満祐が6代将軍義教を謀殺するという嘉吉の変を起こした。播磨龍野の奥の亀の山城(城山城・きのやまじょう)に立て籠もった満祐は、強大な幕府軍を迎え、一族と共に戦死した。赤松家の衰退後の播磨・備前・美作は戦功により、山名氏が全て領有した。
赤松氏は壊滅的打撃を受けたが、逃げ隠れていた遺臣達が、満祐の弟義雅の孫政則を盛り立てると共に、幕府へ赤松家再興を願い出た。その条件として後南朝に奪われた神璽(やさかにのまがたま)を取り返すことを訴えた。そして赤松残党は、嘉吉の変から16年後の長禄元年(1457)12月1日、吉野を襲った(長禄の事変)。事変の結果については諸説あり定かではないが、赤松氏は再興を許され、政則が当主の座についた。
そして応仁の乱の時、細川勝元は政則に、播磨に下向させ山名氏を討たせた。その後さらに、山名氏撃退により、政則は播磨守護に任じられ、 姫路城を本拠とした。しかし当時はまだ山名氏の影響が強く、但馬方面に対処するために、文明元年(1469)置塩城を新しく築き本拠とした。その後、政則は、備前・美作の旧領も回復した。
天正5年(1577)、5代則房の時、羽柴秀吉の中国攻めで降伏し、秀吉に従った。秀吉は、中国攻めの拠点として姫路城を築城したが、この時置塩城は解体されて、姫路城の資材として移された。 姫路城「と」の門が置塩城大手門を移築したものといわれている。
『「歴史と旅・戦国大名総覧(秋田書店刊)」他参照』

現況・登城記・感想等

山麓の登山口に置塩城跡の碑と置塩家の墓がある。登り始めてすぐ「登山道置塩城跡江十八丁」の石碑がある。丁とは昔の距離単位で、現在の距離単位に直すと1丁で約109mになる。即ち、18丁は約2kmということになる。赤松氏の本拠の城跡ということで、相当な登りを覚悟していただけに、少しほっとしたような気持ちになった。
7~8丁目辺りまでは、鬱蒼とした森の中を、ただただ歩くのみであるが、8丁目から上になると周りの景色が木々の間から見えてくるようになる。18丁目が茶室跡になり、そのすぐ傍に置塩城の簡単な縄張りが分かる案内図がある。
それを見て、まずは本丸跡へ向かう。本丸には腰曲輪が何段もあり、一番下の曲輪の石垣は結構残っている。本丸からの景色は素晴らしく、天気がもうひとつで、やや霞んでいるものの瀬戸内海の島々がよく見える。
次に、台所跡・二の丸跡・二の丸北曲輪群・三の丸跡と廻った。台所跡に石垣が少し残っている。三の丸や二の丸の土塁もよく見ると、ここも石垣であったのが分かる。また、そこらじゅうにブルーシートが被せられていたが、石垣が崩れないように覆ってあるようだ。二の丸にも多くの腰曲輪がある。
三の丸や北曲輪は実に広い。次に、二の丸の西側を通って案内図の所に戻ったが、その途中にも石垣があった。
最後に、南西曲輪群へ向かった。途中に大手門への道が草に覆われていた。今は通るのは無理なようである。南西曲輪群には、大石垣というのがあり期待していたが、先程見た石垣とそれほど変わらなかった。
置塩城は、さすが赤松氏の本拠の城であり、結構規模も大きいが予想以上のものではなかったし、体力消耗も少なかった。尤も、さらに発掘調査が進んで整備されたら、また違ったものとなるのであろう。
(2006/11/25登城して)

ギャラリー

置塩城縄張図(現地案内板より) ~クリックにて拡大画面に~
置塩城縄張図

置塩城跡遠景
置塩城跡の山麓には夢前川が流れています。 
置塩城遠景

登城口
登城口には立派な石碑と標柱が立っています。 
01登城口

置塩家の墓
登城口脇には、置塩家の墓があります。
03置塩家墓

登り始めてすぐ「登山道置塩城跡江十八丁」の石碑
丁とは昔の距離単位で、現在の距離単位に直すと1丁で約109mになります。即ち、18丁は約2kmということになります。赤松氏の本拠の城跡ということで、相当な登りを覚悟していただけに、少しほっとしたような気持ちになりました。とはいえ、山道の2kmは結構ありますね(苦笑)。
05十八丁石碑

南曲輪群
登城口から、ひたすら登ること33~34分ほどで削平地が確認されます。これは南曲輪群の一つで、ここから下の方へ段曲輪になっているようですが、何はともあれ十八丁目を目指して、さらに登って行きます。
DSC04488

十八丁目到着
そして、登城口から35分ほどで十八丁に辿り着きます。そこには石垣が築かれていますが、その上が茶室跡です。 
DSC04489

茶室跡 
茶室跡

縄張図付き案内板(分岐)
茶室跡のすぐ北側には縄張図付きの案内板が設置されています。ここを右へ向かうと二の丸を左手に見て本丸へ、左へ向かうと二の丸を右手に見て三の丸方面へ、左手前へ向かうと南西曲輪群です。まずは、本丸跡へ向かいます。
11置塩城案内板

本丸腰曲輪
案内板のところ(分岐点)から右の方へ4分ほど歩いて行くと、塁段になった腰曲輪があります。当腰曲輪は、最も下の段になります。置塩城には、あらゆる処に石垣が使われていたようですが、崩れ易くなっているのでブルーシートがそこらじゅうに・・・。ちょっと興醒めです(/。ヽ)。
13石垣

本丸跡
発掘調査中なのでしょうか、本丸跡もブルーシートだらけです。
15本丸

本丸からの眺望(瀬戸内海方面)
本丸からの眺望は素晴らしいです。南方面は瀬戸内海の島々も見えます。但し、当日は靄がかかってもう一つ。
17本丸からの眺望

二の丸跡①
本丸跡のあとは二の丸跡へ・・・。二の丸の周囲にも幾段もの腰曲輪が設けられています。
21二の丸1

二の丸跡②
二の丸跡には少し加工されているような石がいっぱい転がっていましたが、建物の礎石でしょうか?また、周囲には低いながらも土塁がめぐっています。
21二の丸2

二の丸西側面の切岸
二の丸の西側面の切岸は、かなり切り立っており、多くが草の中に埋もれていますが石垣も散見されます。
二の丸西側石垣1

二の丸西側面の切岸の石垣
二の丸西側石垣2

二の丸南西部の石垣
二の丸南西部の石垣は、かなり良好に残っています。
二の丸南西部石垣

二の丸と三の丸間の空堀①
この空堀は、かなり規模が大きいです。当写真は三の丸側から撮ったものです。
三の丸と二の丸間の空堀1

二の丸と三の丸間の空堀②
二の丸と三の丸間の空堀は、通路として使用されていました。
三の丸と二の丸間の空堀2

二の丸北曲輪群
二の丸の北東には塁段に設けられた二の丸北曲輪群があります。
23二の丸北曲輪群

台所跡
台所跡というには、相当な広さがあり、周囲には土塁・石垣も認められます。しかしここにもブルーシートが。
31台所跡

台所跡の石垣
32台所跡石垣

三の丸跡
三の丸は非常に広く、周囲をめぐる土塁が確認できます。また、石垣も僅かに残っています。
三の丸

三の丸周囲の土塁
三の丸土塁

三の丸周囲の土塁に僅かに残る石垣
三の丸石垣

南西曲輪群
南西曲輪群は数段の小さな曲輪からなります。ここから西曲輪群を通って大手門へ行けるようですが、まずは南西曲輪群の下の方の段にある「大石垣」を目指します。
DSC04545

南西曲輪群の大石垣①
DSC04547

南西曲輪群の大石垣②
「大石垣」というので大いに期待していましたが、高さはせいぜい2mほどのもので期待外れといえば期待外れかもしれません。ただ、それぞれの石はでっかくて、往時の技術を考えると大したものなのでしょう。

DSC04554

大手
南西曲輪群の一番上に戻り、西曲輪群を通って大手門跡へ行こうと思いましたが、とんでもない薮で断念しました(/。ヽ)。
DSC04546

山麓の櫃蔵神社と大銀杏(大手登城口) 
置塩城5代城主赤松則房が天正5年(1577)、羽柴秀吉に服して開城したとき、城の守護神は当神社と糸田の柏森神社、恒屋の櫃倉神社の3所に分祀されたそうです。背後の山が置塩城で、神社脇に大手道らしき道がありましたが・・・?次回、また登城するチャンスがあったら、こちらから登りますかねえ。
DSC04565

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