二の丸から本丸土塁を
山名四天王の一人八木氏の山城
別名
八木古城
所在地
兵庫県養父市八鹿町八木
(八木城本丸石垣北西下から500m)
形状
山城(標高409m、比高310m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、堀切、井戸跡
満足度
★★☆☆☆
訪城日
2009/05/09
歴史等
八木土城は、平安時代末の康平6年(1063)頃に閉伊四郎頼国がこの地を与えられ築城したという説もあるが定かではない。
その後、鎌倉時代初期に朝倉城(八鹿町朝倉)の城主朝倉高清が土城の城主閉伊十郎行光と戦い勝利をした後、高清の次男安高が八木荘に入り、以後八木氏を称し、八木城を居城とした。
八木氏は、承久の変の時に、鎌倉方へ味方して所領を安堵され、室町時代以降は、出石を本拠として全国にその名を覇せた山名氏の傘下に入り、代々山名四天王の一人として重きをなした。
室町時代頃、八木氏は、同じ尾根線の東方に新たに新城(石城)を築城して移ったという。
その後、戦国時代末の羽柴秀吉による播磨・但馬を平定の際に、天正8年(1580)3月八木城も落城した。
『「八木城説明板」、「日本城郭総覧(秋田書店刊)」他参照』
現況・登城記・感想等
八木土城へは、山麓から八木城(石城)まで坂道を延々35分強登った後、更に約15分、落ち葉が幾重にも重なり滑りやすい急坂道を登って行くのである。
八木城(石城)で比高230m、八木土城は比高310mである。ということは、八木城(石城)と土城の比高差は80mあるということだ。
しかし、ここまで来たからには戻るわけにはいかない。
八木城(石城)の本丸石垣の北西下にある案内板に従って、幅1mほどの尾根を登って行くと、塁段になった曲輪が次々と現れる。
途中、井戸跡の残る曲輪もある。そして、多くの曲輪の左(南西)側には土塁が残っている。北東側の崖に較べて傾斜が緩いからだろうか?
最高所に築かれた主郭南下の曲輪(二の丸?)への桝形虎口の土塁が良く残っている。
土城は、おそらく八木城(石城)が築かれた後も、詰めの城として機能していたのだろう。
(2009/05/09登城して)
ギャラリー
土城全景(八木城本丸から)
ここまで35分強かけて登ってきた後に、この山容を見ると・・・。今日は、ここがまだ2つ目の山城だが、東京からの長距離運転と昨夜の飲み過ぎがたたっているのか?しかし、ここまで来て戻るわけにはいかない!
土城へ
八木城本丸の北西下に「土城跡 ここより500m」の案内板がある。これに従って・・・。
堀切
しばらく進むと堀切へと出る。かなり埋まってしまって写真では分かり辛いが、はっきりと確認出来る。ここを渡って進む。
登城道
㊧登城道は、最初は幅1mほどの尾根の上を歩いて行くが、その内に落ち葉が幾重にも重なって滑りやすい急坂になる。この時に、山麓で借りてきた杖代わりのストックが大活躍!!右写真は、急坂を上から撮ったもの。
曲輪
急坂を登ると、塁段になった曲輪が次々と現れる。土塁のあるもの、ないものがある。この写真は最初に出会う土塁のある曲輪である。土塁は左(南西)側に残っているが、北東側に較べて多少崖が緩いからだろうか?右写真は曲輪奥から撮ったもので、左写真の左側に見える土塁である。
さらに登って行くと正面に大土塁が見えてくる。一瞬、これが本丸かとほっとしたが、まだまだ・・・。
さらに土塁と曲輪
土塁を登ると、またまた曲輪跡が・・・。この曲輪の南西側にも土塁が良好に残っている。
井戸
塁段になった曲輪を、いくつも登って行くと、井戸(右)が残っている曲輪へ出る。
二の丸への枡形虎口
さらに登って行くと、枡形虎口の土塁が現れる。ここを入った所が本丸下の曲輪(二の丸?)になる。
二の丸
二の丸へ入ると、奥に本丸土塁が見える。一体、幾つの曲輪があったのだろう?10以上あったのは間違いないだろう。
本丸
はっきり言って、本丸跡は土塁にも囲まれていなかったようで、何の変哲もない。
本丸から二の丸方面を見下ろす
本丸から、今登って来た道を見下ろすと、ゴルフ場のティーグラウンドみたいに段々になっているのがよく分かる。典型的な中世の山城の縄張である。私は何故か、この段曲輪の光景が好きだ。