大聖寺境内に立つ「花乃御所」の碑
足利3代将軍義満が築いた通称「花乃御所」
別名
花の御所、岡松殿、室町殿、室町御所
所在地
京都府京都市上京区
【アクセス】
大聖寺に「花乃御所」と刻まれた石碑、今出川通り沿い(今出川室町通り交差点北東角)に「「従是東北 足利将軍室町第址」と刻まれた石碑があります。
大聖寺:上京区御所八幡町109、地下鉄烏丸線「今出川駅」2番出口を出てすぐ北
形状
屋敷
現状・遺構等
【現状】 市街地
【遺構等】 石碑
満足度
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歴史等
永和4年(天授4年、1378)、3代将軍足利義満が、崇光上皇の仙洞御所跡と今出川公直の邸宅(菊亭)跡をあわせた敷地に造営した将軍家の邸宅で、賀茂川から水を引き、多くの花々が植えられていたことから「花の御所」と呼ばれた。
また、室町通に面して正門が設けられたことから室町殿と呼ばれたため、室町幕府の由来となっている。
応永元年(1394)、義満は将軍職を子の義持に譲り北山第(鹿苑寺)に移った。
義持は義満の死後、三条坊門第を再興したが、永享3年(1431)6代将軍足利義教は室町第に移り住んだ。
ところが、応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱で室町第は焼失し、その後、小規模ながら室町殿を再建したが、永禄2年(1559)13代将軍足利義輝が*二条御所を造営して移ったため廃止された。
*二条御所
「二条城」と呼ばれることのあるものは、複数ある。
①室町幕府第13代将軍足利義輝の居城。(二条御所)
②織田信長によって、室町幕府第15代将軍足利義昭の居城として作られた城。(二条古城)
③織田信長が、京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸。 (二条殿)
④徳川家康が、京に滞在中の宿所として作った城。(二条城)
①と②は同じ場所に作られたが連続性がない。
②の二条城と③の二条城は同じものと見る説もあるが『信長公記』その他の史料を根拠として別のものとする説が通説となっている。①②③について「二条城」と呼ぶのは④が完成した江戸時代以降のことであり、 ④と区別する趣旨で「旧二条城」「二条古城」などと呼ばれることもある。
ここでいう「二条御所」は、当然、①の二条城ということになります。
現況・登城記・感想等
「室町第」は、通称の「花乃御所」と言った方が分かりやすいかもしれません。
往時の「室町第」は、東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、北側を上立売通に囲まれた東西1町(約109m)、南北2町(218m)を占めた豪華な将軍の邸宅であったといいますが、私は「義満のことだから、もっと敷地が広いと思っていたので意外です。
今では、市街地に埋もれてしまい、跡形もなく、大聖寺に「花乃御所」と刻まれた石碑、今出川通り沿い(今出川室町通り交差点北東角)に「従是東北 足利将軍室町第址」と刻まれた石碑が立つだけです。
(2014/05/17訪れて)
【余話】
因みに、私は京都在住時代に今出川通りの一本南の武者小路通りに住んでおり、今出川通り沿いの床屋さんの前に立つ石碑は、その床屋さんが私の行きつけの床屋さんだったので、気が付いていましたが、大聖寺の石碑は知りませんでした。
今回、ついでに、当時住んでいたマンション(タクジロー城)の様子も見て来ましたが、外観はほとんど往時と変わらず綺麗でした。また、床屋さんも健在でした。懐かしい~(*^_^*)
ギャラリー
「花乃御所」の石碑が立つ大聖寺山門
大聖寺山門から入ってすぐ右手にTOP写真の石碑が立っています。右上に見える建物は「同志社大学寒梅館」ですが、そこが室町第の北端になります。
今出川通り沿いの床屋さんの前に立つ石碑
この床屋さんは、京都在住時代の私の行きつけでしたが、健在で懐かしかった(*^_^*)。
石碑
石碑には「従是東北 足利将軍室町第址」と刻まれています。即ち、床屋さんが室町第の南西隅ということです。凄い所で、残り少ない髪を整えてもらっていたんですね(笑)。
【付録】
タクジロー城
石碑の写真を撮りに行く前に、京都在住時代に住んでいたマンション(タクジロー城)を見て来ました。両隣は随分変わっていましたが、マンションは外観は時を経てないかのように全く変わらず、まだまだ綺麗なままでした。こちとらとは大違いです(苦笑)。もう15年以上経ちます。懐かしい~(*^_^*)