丹波 周山城(京都市)

小性丸の石垣

明智光秀が宇津氏を滅ぼして築城した総石垣造りの山城

所在地

京都府京都市右京区京北周山町
【アクセス】
道の駅「ウッディ京北」の北西約400mが登城口で、「ウッディ京北」で周山城の案内図を貰い、登城口を確認しました。車も「ウッディ京北」に駐車しました。

所要時間

落ち葉が積もっていて、二の丸と本丸への急坂道が登り辛かったこともありますが、登城口から本丸まで50分ほど要しました。今回の見学時間は2時間30分でした。

形状

山城(比高220m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 天守台、曲輪、土塁、石塁、石垣、堀切、井戸、石碑、説明板

満足度

★★★★★

訪城日

2007/12/21

歴史等

周山城は、天正年間(1570年代)織田信長に丹波平定を命じられた明智光秀が、天正7年(1579)宇津頼重を滅ぼし、縄野といわれていたこの地に築城したと言われている。
若狭より京都への押さえを目的とした城で、山頂部は主郭を中心に東西南北の尾根上に曲輪を造成。主郭東側には低い石塁で囲い込まれた通路があり、石塁上に土塀を巡らせていたことが考えられる。また、虎口や井戸の跡、建物の存在を示す瓦片は織豊期に使用されたことを示しており、現存する総石垣の遺構は壮大である。
光秀は、信長を殷の紂王に例え、自らは紂王を討った周の武王に見立てて周山と名付けたと言われる(尤も、私は、これは本能寺の変後に創作された逸話であると思うが)。また、天正9年(1581)8月、光秀は津田宗及と十五夜の月見を楽しんだと言われる。
同10年(1582)6月2日の本能寺の変後の同12年(1584)2月には豊臣秀吉が赴いている。
『現地説明板参照』

現況・登城記・感想等

周山城のある京北周山町は、平成の大合併により京都市になったとは言え、京都駅からは車で1時間以上はゆうに掛かる、鄙びた山里である。
京北町役場の駐車場を拝借し、隣接する京北町特産品販売所「ウッディー京北」の方に、城址案内図を頂き、登城道を教えてもらって、出発!
登城口からは、北山杉が植林された道を約30~35分ほどで頂上の本丸に着く。道はよく整備されてはいるものの、途中からは崖の斜面に造られており、所々崩れたりして、かなり幅が狭くなっており、下を見ると怖いくらいである。
また、二の丸への急な登りは、途中までは階段が付いているものの、最後の10mほどは階段が無くなっており、おまけに落ち葉が積もって滑りやすい上に、捕まるものもなく非常に危険で、この10mだけで5分以上掛かったような気がする。
周山城は、総石垣造りの放射状連郭式山城で、山頂部にある本丸を中心に東西南の3方の尾根に段曲輪が配置されている。
本丸は方形で、周りを石塁が巡っており、穴蔵のある天守台も残っている。石垣はかなり崩れてはいるものの、相当量の石が使われていたのがよく分かる。
次に、本丸から西尾根へ向かうと、段曲輪の石垣がいくつも残り、また崩れた石がゴロゴロ転がっている。極め付きは、小性丸とその一段下の曲輪の石垣である。側面から見ると、何とも言えず味わいがあり、かっこ良いと同時に、この城が総石垣造りであった往時を偲ばせてくれる。
次に南尾根へと向かうとこちらにも石垣があり、段曲輪が続いているが、あまり整備されていないようだ。
今日は、午前2:30に車で東京を出発し、午前10:30から登城という強行軍であったが、それに応えてくれる実に素晴らしい城址であった。
(2007/12/21登城して)

ギャラリー

周山城址案内図(道の駅「ウッディ京北」で貰った案内図より)
「ウッディー京北」の方に、城址案内図を頂き、登城道を教えてもらって、出発!
ピンクのラインが登城経路。

周山城縄張図

登城口
登城口の横には、藁葺の家があり、情緒を醸し出してくれます。
登城口

北山杉の林の中を登る
最初は、北山杉の中を登って行きます。日本の多くの山が、植林された杉の間伐がされずに放りっ放しになっており、地面に陽が当らず、新しい草木も生えずに死の山化している中で、さすが高価な北山杉の林は綺麗に伐採整備されています。
北山杉の中を

㊧崖斜面の道、 ㊨道から崖下を
道はよく整備されてはいるものの、途中からは崖の斜面に造られており、所々崩れたりして、かなり幅が狭くなっており、下を見ると怖いくらいです。
急斜面の道 登城道から崖下を

最初に出会う虎口の石垣
今はNHKの受信施設がある曲輪跡への虎口です。ここで初めて石垣に出逢います。
最初に出逢う虎口

二の丸への急坂
二の丸への急な登りは、途中までは階段が付いているものの、最後の10mほどは階段が無くなっており、おまけに落ち葉が積もって滑りやすい上に、捕まるものもなく非常に危険で、この10mだけで5分以上掛かったような気がします。
二の丸への急坂

二の丸南側の虎口
ここへ登って来る道があるようだが気が付きませんでした。落ち葉に隠れてしまっていたのでしょうか??
二の丸南側の虎口

二の丸から本丸を見上げる
ここから本丸を見上げる光景もなかなか良いですね。このあたりから、石垣の崩れた石がゴロゴロ。
二の丸から本丸を

本丸下から二の丸を見下ろす
二の丸の周りが急な崖になっているのが窺い知れると思います。
本丸から二の丸を見下ろす

本丸への虎口
さて、いよいよ本丸です。
本丸虎口

本丸
本丸の削平は不完全なようです。写真左上は天守台です。
本丸

天守台
この穴蔵のある天守台のうねりが何とも言えない!?
天守台

本丸周囲の石塁
本丸周囲の石塁

本丸西側の虎口
この虎口の手前が非常にえぐれていたが、枡形でしょうかねえ??
本丸西側の虎口

本丸西下の曲輪から本丸を
本丸から西尾根へ向かうと、枡形状に石垣が残り、また崩れた石がゴロゴロ転がっています。 
本丸西下の曲輪から本丸を

西尾根の曲輪の石垣
西尾根曲輪の石垣

段曲輪
西下の方を見ると、段曲輪になって、曲輪の周囲を石垣が取り囲んでいるのが分かります。
段曲輪

小性丸北面の高石垣
小性丸の北面の高石垣が、当城跡の最大の見どころでしょう。
小姓丸北面石垣

小性丸とその一段下の曲輪の石垣 ~クリックにて拡大画面に~
この小性丸の北面の高石垣と、その一段下の曲輪の北面の石垣を見ると、何とも言えず味わいがあり、かっこ良いと同時に、この城が総石垣造りであった往時を偲ばせてくれるような気がします。
小姓丸と石垣

小性丸下の曲輪の西面の石垣を見上げる
本丸でなくても、急斜面な上、これだけの高低差です。見事というほかありません!
小姓丸西下曲輪を

本丸北西下に残る井戸
この石組みはしっかりしている。土に埋もれていて、水は無い。
井戸

本丸南側の腰曲輪
西尾根の曲輪群を見学したあと、南尾根へと向かうとこちらにも石垣があり、段曲輪が続いていましたが、ほとんど整備されていないようでしたので、少し下りて行ってから引き返してきました。
本丸南下腰曲輪

トップページへ このページの先頭へ

コメント

縄野昌彦(2008/04/26)

自分では珍しいと思っていた姓が意外と多いことに驚き。かつ、京都に地名があったとは知りませんでした。これがルーツなのかも?これからもルーツの情報収集をしていきたいと思っています。

山本善一(2008/10/18)

尼崎市在住の、気持ちは青年の64歳。山城チャレンジの「時」の少なさを感じているのか、昨日(2008/10/17)、登城してきました。今回は登山という印象で、NHKアンテナ基地部に登る直前付近では恐怖を感じ、下山時を心配致しました。帰宅してから、網野さんのページに遭遇し、石垣のこんな部分があったのかとビックリ。私は、石垣の残骸と思える状態しか発見できていません。おそらく廃城になった時に、敵に利用されることを恐れ、徹底的に破壊したのでは。本丸跡から西側600mの離れた場所に陣城があり、ここの石垣が残っているらしい、という情報をもとに、西側方面を見たのですが、行けそうな山道がなく断念し、下山。急峻な部分は、NHKの通信ケーブルを掴み助けられました。その後、道を見失いどちらに降りていいのか判らない箇所があり真っ青状態。往きは、周山城の矢印標識で上がったのですが、「往きはよいよい帰りは怖い」の状態でした。今までの経験した山城の中では一番、判りにくかった城址です。これから行かれる方は、網野さん紹介「ウッディー京北」へ必ず寄られることでしょうね。紹介していただいた写真は、こんなに素晴らしい場所があったんだ、と感激して見せていただきました。ありがとうございました。今、足ががたがたの状態です。

タクジロー(2008/10/21)

山本善一様
コメントをありがとうございます。
今日まで、北海道へ行っていましたので、返事が遅くなり失礼しました。
周山城ですが、本丸への最後の登り道は確かに強烈な坂道で大変です。
私は、家内と一緒でしたので、特に、帰り(下り)は、本当に大変でした。
石垣は、本丸をさらに真っ直ぐ奥へと下りて行き、これ以上降りれなくなった所の下に、素晴らしい石垣が残っています。
私は、杖も持たずに行ったのですが、杖は必須ですね。

この記事へのコメント

名前

メールアドレス

URL

コメント