郭中央の土塁?
六角氏最前線の支城、信長の近江侵攻時に落城
所在地
滋賀県東近江市五個荘和田町
【アクセス】
国道8号線「築瀬信号」を西へ曲がり、県道52号線に入り、1Km強先を右折し、突き当たりを左折し、すぐまた右折し、
神社手前で右折すると左手に地区の公民館集会所(光明寺の北)があり、この北から登る。非常に分かり辛いが、光明寺を目標に行けばよい。
ただ、道が非常に狭いので、集落へ入ったら地元の方に教えてもらう方が良いかも。
光明寺:五個荘和田町404、電話0748-48-3414
形状
山城(180.1m)
現状・遺構等
現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、標柱
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2010/12/05
歴史等
和田山は愛知川に突出する小独立丘で、南西には近江守護職佐々木六角氏の居城・観音寺城が構えられている繖山が聳えている。
このため繖山周辺の山々には観音寺城を防御するように、
繖山の北東端には佐生城、南方には箕作山城や小脇山城、布施山城、長光寺城、西方には円山城など、支城群が配置されていた。
和田山城もこうした城郭と同じように、観音寺城を防御する目的で築かれたものと考えられ、
六角政頼の三男和田高成を祖とする和田氏が城主であったと伝えられる。
永禄11年(1568)9月、織田信長の近江侵攻に対して、和田山城は、
六角氏の最前線として六角氏の被官たち主力が立て籠もって防戦することとなった。
しかし、信長は近江侵攻にあたって六角方が立て籠もる諸城には目もくれず箕作山城を攻め、和田山城へは美濃三人衆(氏家卜全・安藤守就・
稲葉一鉄)があたった。
猛烈な夜襲によって箕作山城が落城したのを知った六角氏は和田山城、観音寺城から退散し、
落城したという。
『近江の山城 ベスト50を歩く・中井均編(サンライズ出版刊)他参照』
現況・登城記・感想等
信長が六角氏の本城である観音寺城攻めの時に、箕作山城落城後に、あっさりと落とされた(逃げ落ちた?)
有名な城なので登城してみたが、遺構は実に分かり辛く、南端の土塁が辛うじて分かる程度だった(苦笑)。
TOP写真を見ても、おそらく誰も、これが城跡とは思わないだろう(苦笑)。縄張図などの事前準備なしに登城していたら、
全く気が付かなかっただろう。
(2010/12/05登城して)
ギャラリー
神社の前に立つ城址標柱
綺麗に整備された道を登ると、神社の祠が祀られ、その下段に城址標柱が立っている。
郭南端の土塁?
この土塁が、唯一分かりやすかった?土塁の外側へ降りて行くと、土塁下が空堀のようになっており、
底から土塁上は、約4mほどある。それにしても、ひどい藪というか、倒木だらけだ(苦笑)。