秀次居館の高石垣
八幡山城の山腹に築かれた豊臣秀次の居館
所在地
滋賀県近江八幡市宮内町
【アクセス】
近江八幡市立図書館の裏(北)に八幡公園がある。その西端に秀次居館と家臣団屋敷跡の石垣がある。尚、公園内に説明板があり、周辺地図が載っている。尚、駐車場は、図書館にも公園にもある。
近江八幡市立図書館:近江八幡市宮内町100、0748-32-4090
形状
館
現状・遺構等
【現状】竹薮
【遺構等】曲輪、石垣、枡形虎口、説明板
満足度
★★★☆☆
訪城日
2010/12/05
歴史等
天正13年(1585)豊臣秀次は近江43万石を与えられ、琵琶湖に臨む標高271.9mの八幡山(鶴翼山)に八幡山城を築いた。本丸及び二の丸・北の丸・西の丸・出丸の城郭施設は山頂部分に配置され、居館部分は山腹に平坦地を設けて造られた。
大手道は、八幡山城を築くに際して開削されたと伝わる八幡堀から居館部分最高所に位置する秀次館に至り、この大手道両側には雛壇状に家臣団屋敷群が広がっていた。
織豊期の城郭は、防御空間と居住空間が一体になっているが、この八幡山城は防御空間としての詰城と居住空間の居館が分離し、戦国期の城郭に見られる形態をとっている。これは、八幡山城が築城された天正13年(1585)が「小牧長久手の戦い」の翌年であり、東国に対しての臨戦態勢の緊張下にあり、近江が防御線として考えられていたことに起因すると考えられている。
『「近江の山城 ベスト50を歩く・中井均編(サンライズ出版刊)」、「現地説明板」より』
現況・登城記・感想等
秀次居館跡は、八幡山城の南側山麓にあり、石垣群が残っている。
谷地形の中央部分、標高約130m地点に秀次の居館が築かれ、雛壇状に家臣団の館が築かれている。
最上部の秀次居館には巨大な内枡形の虎口が設けられ、その両側は、西側は2段、東側は4段の高石垣が構え、隅部分は算木積みで積まれている。
さすがに、立派な高石垣だが、強烈な藪などで中の方までは行けなかった。
居館跡の下の方の竹薮の中にも家臣団屋敷の石垣が一部が確認できる。
(2010/12/05訪れて)
ギャラリー
八幡公園と秀次居館跡の案内図 ~クリックにて拡大画面に~
八幡山城南麓の谷地形の中央部分、標高約130m地点に秀次の居館が築かれ、雛壇状に家臣団の館が築かれている。
最上部の秀次居館には巨大な内枡形の虎口が設けられ、その両側は、西側は2段、東側は4段の高石垣が構え、隅部分は算木積みで積まれている。
八幡公園へ
秀次とその家臣団館跡は八幡公園の西側にある。公園の駐車場に車を駐車して公園内を西に方へと進む。
豊臣秀次像
八幡公園内には秀次の銅像が立っている。悪名高い?秀次であるが、領内の統治では善政を布いたと言われ、地元では今でも慕われている。
八幡公園の紅葉
八幡公園は紅葉がきれいだった。この紅葉を右手に見て西の方へ向かって行く。
竹藪の南面下の石垣
八幡公園の中を、西の方へ歩いて行くと、右手(北)が竹藪になり、その下に石垣が確認できる。もうこの辺りは家臣団館跡域内に入っているようだ。
大手道から登城
右手に竹藪と石垣を見ながら西へと歩いて行くと、大手道へ出る。大手道の右側には良好に残る石垣があり、登って行くと正面にも立派な高石垣が見えてくる。秀次居館の巨大虎口の石垣のようだ。虎口は内枡形になっており、西側は2段、東側は4段の高石垣が構えている。
居館への桝形虎口内
桝形内は強烈な藪であえなく退散するしかなかった(汗)。おまけに、その奥はすごく切り立った切岸のようになっていたが、これは昭和42年の集中豪雨によって土砂崩れのあとのようだ。
桝形虎口西側の石垣
石垣の隅部分は算木積みで積まれている。かなりの藪だったが、入って行くと、すぐに高い段差があり、残念ながら中の方までは行けなかった。