真っ直ぐに伸びる大手道
信長が日本城郭史に大変革をもたらした天守の出現
所在地
滋賀県近江八幡市安土町豊浦
形状
山城(標高:199m、比高差:112m)
現状・遺構
天守曲輪跡に天守台(礎石が現存)、本丸御殿跡、二の丸跡に信長廟(秀吉が築造)、天守台・本丸・二の丸の石塁、黒金門枡形の石垣、聰見寺の現存三重塔・現存仁王門・本堂跡地
満足度
★★★★★
訪城日
1989/11/11
1990/08/27
1997/08/02
2004/11/27
2005/06/04
2010/02/07
2011/11/22
歴史等
天正4年(1576)織田信長が丹羽長秀を普請奉行に命じて築城を始め、天正7年(1579)には、山頂に5層7階の豪壮華麗な大天守が完成。
天正10年(1582)、本能寺の変で信長・信忠父子が討たれ、山崎の合戦の後に焼失している。
焼失の原因は、この頃安土城にいた明智秀満(光秀の女婿)が山崎敗戦の報に触れ、城に放火して坂本城に避難したとも、秀満退避後に入城した織田信雄(信長の次男)が火を放った、或いは、一揆の手による等々、諸説があるが、真相は不明である。
現況・登城記・感想等
安土城は、近世城郭の礎となった城であり、まさに信長の城郭建築の集大成の城である。そして、私が城マニアになった原点の城址である。
20年以上前(1989/11/11)の琵琶湖旅行の途中にたまたま近くを通り、登城した。初めて登城した時のことは、今でも鮮明に憶えている。百々橋口から登り始めたが、両側には石がゴロゴロ転がっていた。また、よく見ると石垣らしきものが、 茫々に生えている草の間から垣間見える。そして、天主台周囲の石塁や摠見寺の三重の塔の所から眼下に見える琵琶湖と広々と拡がる平野を見て、「信長も、 ここから見える全てが自分のものだ! 天下は俺のものだ!」また、「秀吉も、信長がここから見えることを計算ずくで、今浜(長浜) から延々と続く土産物持参の長蛇の行列で登城したんだろうな」等と想いにはせた(妄想をした)のだ。そして天守閣跡にある礎石や、 大手道を降りていく時に見た秀吉や利家等の屋敷跡やボランティアの方が木の根っこが絡みついた石の周りを古代遺跡を掘るように丁寧にヘラで掘り起こしているのを見て、 「滅びの美」を感じたのだ。
その後、何度も登城したが、1997/08/02に3回目の登城した時に、大手道を見て、 あまりにも綺麗に整備されているのには驚きとともに失望も感じた。
確かに正確に復元されてはいるが、初めて見た時の、あの「滅びの美」とは、あまりにもかけ離れていたからである。
とは云いながら、整備された真っ直ぐに延びる大手道は素晴らしく、まさに信長のすごさ(権力等々)を見る思いであり、 これはこれでいいのかなと考え直した。
こうなれば、天主閣はともかくとして、さらに正確な復元を進め、他の登城道からも登れるようにしてほしいものである。尚、登城道は、大手道・百々橋口・松源院・搦手・七曲道があるらしいが、安土山は摠見寺と個人の持ち山で、 山内を自由に歩き回ることは出来ない。整備され、通ることが出来るのは、まだ、大手道と百々橋口道に限られているのだ。
ギャラリー
安土城縄張図(現地説明板より)
見学ルートは、大手道と百々橋口道の赤い線に限る。是非、搦手道も通れるようにしてほしいものだ。また、以前は百々橋口からも登城できたが、入場料徴収のためか、登城口は大手口だけになっている。
安土城山麓大手門跡辺りから
山麓辺りはすっかり復元整備されている。
登城口
この手前に料金所があり、入城料(拝観料というらしい)500円をとるのだ。信長さんも、築城後に、町の人間から見学料をとってお披露目をしたそうだから止むを得ない?
大手道
いよいよ登城です。杖も用意されています。
伝前田利家邸跡
伝豊臣秀吉邸跡
かなり広くて立派だ。この頃には、既に信頼も厚かったようだ。
大手道の上の方からの眺望
左の建物は、現在の摠見寺で、伝徳川家康邸である。当写真は、2004/11/27に登城した時のもので、見事な紅葉でした。
伝武井夕庵邸
武井夕庵は、美濃土岐氏、斎藤道三・義龍・龍興の三代に仕えた。斎藤氏の滅亡後、織田信長に仕え右筆となり、秘書として信長そば近くに仕え、内政面だけではなく、外交面でも重用され、活躍した。
黒金門の入口付近
黒金門は、城内主要部への虎口にあたり、重厚な石垣で固められている。
黒金門の出口付近(正面は二の丸の石垣)
左へ曲がると伝長谷川秀一邸へ、二の丸へは右から大きく廻って登って行く。
伝長谷川秀一邸
長谷川秀一は、信長に小姓として仕え、若年より諸事に用いられた。何故か、織田信雄以下四代の大和宇陀藩主の墓塔が立っている。左から2代高長・3代長頼・4代信武・初代信雄の順。
仏足石
釈迦の足跡といわれる仏足石である。この石は石垣を作る際に墓石,石仏及び石塔などと一緒に、石材として用いられたものであると考えられている。
二の丸へ
右奥に信長廟が見える。
信長廟
二の丸
二の丸を天守台上から見下ろしたもので、右の方に信長廟が。
本丸虎口
本丸跡
本丸には、京都御所の清涼殿を模した御殿が建てられていた。その礎石が、今も残っている。
本丸から天守曲輪石垣を
天守曲輪の石垣(写真右の方が搦手)
20年以上前に初めて登城した時に、全く整備されていない(今でも整備されていないが)にも関わらず、この見事な石垣が残っているのを見てすっかり虜になってしまったのです。この裏側から右へと搦手道があるのだが、未整備状態で(私有地でもある)入って行くことができない。早く整備されるといいですね。
天主台への入口
天主台へ
天守台へ登ると、多くの礎石が残り、周囲には石塁が巡る。
天守閣の周囲をめぐる石塁と礎石(石塁上から撮影)
天主台石塁上からの眺望
(彦根・長浜方面)
信長がここから見えることを計算ずくで、秀吉は、今浜(長浜) から延々と続く土産物持参の長蛇の行列で登城したんだろうか。
(比良山系方面)
当時は、山麓まで琵琶湖の水がきていたというから、船で渡れば京都が近いのがよくわかる。
摠見寺跡へ
摠見寺跡
摠見寺は、安土城築城と同時に建立され、廃城後も残っていたそうだが、幕末に火災で焼失したのだそうだ。
摠見寺跡からの眺望(西ノ湖を望む)
摠見寺の三重塔
摠見寺の仁王門
㊧安土駅前に立つ「信長像」、㊨駅近くの城郭資料館内の安土城模型
安土駅前には信長の銅像、駅の反対側には城郭資料館、駅前の案内所も安土城天守を模した建物で、安土駅は信長一色だ。せっかくだから、観音寺城もすぐ近くにあるのだから、少し宣伝したらいいのに。それにしても、安土城は、こんな姿をしていたの? 再現というよりイメージ像でしょうか。多くの点が分かっていないというのが本当のところだと思うんだけど。