両側石垣の参道
湖東三山の一つ、六角氏方の援護をしたため信長に焼き払われる
読み方
ひゃくさいじじょう
所在地
滋賀県東近江市百済寺町
形状
山城(城郭寺院)
現状・遺構
【現状】 百済寺
【遺構等】 土塁、空堀、石垣
満足度
★★☆☆☆
歴史等
湖東三山の一つとして名高い百済寺は、飛鳥時代創建の近江最古級の古刹である。推古天皇の時代に、聖徳太子の御願により朝鮮半島の百済国の龍雲寺を模して造られ、創建された。
文亀3年(1503)に佐々木六角氏と被官伊庭氏の抗争により全焼し、この復興と共に城塞化が始まったとされている。
佐々木六角氏は、自主防衛のために観音正寺と百済寺を石垣で城塞化するとともに、鯰江城などの出城を築いていった。
元亀元年(1570)秋、佐々木六角義治等が、織田信長に抗して、鯰江城に入ると、百済寺の宗徒は寺内に、その妻子を預かり、兵糧を送り援護したため、天正元年(1573)4月11日、信長は百済寺を悉く焼き払った。
『「百済寺パンフレット」、「現地説明板」他より』
訪城日
1997/08/01
2004/11/27
2011/11/22
現況・登城記・感想等
湖東三山の一つ百済寺は、金剛輪寺、西明寺とともに紅葉の名所としても有名だ。中でも、紅葉の季節の本坊の喜見院の池と変化に富む巨岩を配した豪華な池泉廻遊式ならびに観賞式の庭園の光景は素晴らしい。
一方、山城としての百済寺城は、山麓付近に立つ赤門の側の空堀や土塁、参道の左右に塁段に設けられた石垣を築いた数々の「僧坊跡(削平地)」等々が残る。
中でも、本坊下の高石垣と旧本堂へと延びる参道両側の石垣と石段は見応え充分だ。
尤も、石垣のほとんどが「石曳」をされ、安土城築城の際に運ばれたといわれ、現在の石垣の多くは江戸期に入ってから再建されたものである。しかしながら、所々に「石曳」から免れた石垣が残り、往時を偲ばせる。
ギャラリー
赤門(1997/08/01撮影)
今では本堂の石垣下まで車で登って行けるが、本来は当門をくぐって参道を登って行くべきかも?ただ、この近くには駐車場がなかったように思う。また、当写真は1997年の真夏(8/1)に初めて行った時に撮ったものだが、その後2回も行っているのに、何故か本堂の石垣下の駐車場まで素通りしてしまった。この赤門脇には堀切が残っているというのにねえ(;>_<;)
本堂南西隅(上写真の石垣右上)の紅葉(2004/11/27撮影)
僧坊跡
山城の遺構の一つに、参道の左右に塁段に設けられた石垣を築いた数々の「僧坊跡(削平地)」が残る。この僧坊跡には周囲に土塁も認められる。
「石曳」から逃れた石垣
石垣のほとんどが「石曳」をされ、安土城築城の際に運ばれたが、、所々に「石曳」から免れた石垣が残っている。これらは、小石を積み上げた石垣であったため、信長も安土へ「石曳」をせず、破壊されずに残った。
【本坊の喜見院庭園】
湖東三山の一つ百済寺は、金剛輪寺、西明寺とともに紅葉の名所としても有名だ。中でも、紅葉の季節の本坊の喜見院の池と変化に富む巨岩を配した豪華な池泉廻遊式ならびに観賞式の庭園の光景は素晴らしい。
天下遠望の名園
当庭園は、「天下遠望の名園」と称され、 西方の借景は琵琶湖をかすめて、55km先の比叡山で、広大なパノラマ展望を望める。この眺望を見ると、この地が如何に要衝の地にあったかが分かる。