近江 東野山砦(余呉町)

虎口から主郭を

賤ケ岳合戦の時に秀吉方の堀秀政が陣を構えた砦

読み方

ひがしのやまとりで

別名

東野山城、左禰山(さねやま)砦、左禰山城、実山(さねやま)砦

所在地

滋賀県伊香郡余呉町下東野
【アクセス】
余呉小学校の南側(案内板あり)を東へ曲がり、北陸自動車道に架かる陸橋を渡ると林道へ入る。
ここから林道を約2.5km登り、突き当たった所が木材の集積地で、その100mほど手前左側に説明板があり、そこが登城口で、城址まではすぐ(30秒)である。駐車は、道脇ぎりぎりに停めるしかない。

尚、林道終点が木材集積地になっているので平日はトラックが通ることを覚悟。また、粘土質で柔らかい上に、トラックも通るので、轍が強烈である。道幅はトラック一台がやっと通れるほどで、トラックと擦れ違いが出来る所は気が付かなかった。
余呉小学校:余呉町中之郷777、電話0749-86-2300

形状

山城(陣城、砦) 標高406m、比高300m

現状・遺構等

現状:山林
遺構等:曲輪、土塁、空堀、竪堀、虎口、馬出し、石柱、城址板、説明板

満足度

★★★☆☆

訪城日

2008/11/11

歴史等

東野山は、京極氏、浅井氏が湖北に君臨していた頃より、その配下にあった当地の豪族東野豊前守一族の居城があったところである。
天正11年(1583)3月4日、柴田勝家は北ノ庄城を発し、近江へ向った。勝家は、玄蕃尾城を本陣とし、佐久間盛政の行市山砦を中心に別所山砦・橡谷山砦・林谷砦・中谷山砦等々、近江から北陸へのルートを遮断し、北近江の山塊を要塞網と化した。
一方、羽柴秀吉はこの急報に接するや、3月17日木之本に着陣し、すぐさま布陣にとりかかった。秀吉は、宿場木之本を本陣とし、第一線として、神明山砦に大金藤八郎隊500、堂木山砦に山路正国および木下一元隊500、北国街道の中之郷北に小川祐忠隊1000、その東方の東野山砦に佐和山城主・堀秀政隊5000という陣配置をした。
そして、第二防御ラインは余呉湖東南岸の山稜、西から賤ケ岳砦に竹田城主・桑山重晴隊1000、大岩山砦に茨木城主・中川清秀隊1000、岩崎山砦に高槻城主・高山重友(右近)隊1000を配し、北国街道を挟んだ東方の田上山城に羽柴秀長隊1万5千という陣配置をした。
かくして、両軍の息づまるようなにらみ合いがはじまり、長期戦の様相を呈してきた。
4月4日に、その沈黙を勝家軍がついに破り、神明山に銃撃を加えたが、本格的戦闘には至らなかった。翌5日午前6時、再び勝家軍が動いた。勝家自身が玄蕃尾城を下り、東野山砦に迫った。これを見た堀秀政軍は一気に東野山を駆け下り、余呉川を挟んで対陣し、すさまじい銃撃戦がはじまったが、結局、午後2時頃戦闘は終息し、勝家は本陣へと引き揚げた。
のちに、佐久間盛政が大岩山を制し、勝家に賤ケ岳まで本陣を進めるように意見具申した際に、勝家がこれに応ぜず、再三盛政にて撤退勧告して動かず、秀吉方に勝利を導いたのは、この堀秀政隊の東野山砦の存在が大きかった。
尚、現在残る遺構は、豪族東野氏のものでなく、賤ケ岳合戦時に堀秀政が構築したものと思われる。
『「歴史群像シリーズ・賤ケ岳の戦い(学研刊)」、「現地説明板」参照』

現況・登城記・感想等

東野山砦は小ぶりではあるが、縄張りは非常に複雑で、一見したところ何処が主郭か判断しにくいほど曲輪内に多くの土塁による障壁を設け、曲輪内は迷路のようになっている。
今回の登城では、藪に遮られ、城郭の東側半分の曲輪(多分主郭部分)付近しか見れなかったが、西側の尾根にも小曲輪群が設けられているようだ。
主郭付近の虎口は、いずれも折れを入れ、横矢が掛けられている。また、主郭南の曲輪(二曲輪?)の南側の虎口には外馬出しも構えられている。馬出しの下(東)への谷には一直線に長くて深い竪堀も設けられているらしい。
縄張の複雑さ、巧妙さでは、賤ヶ岳合戦で築城された陣城で、玄蕃尾城とこの東野山砦は双璧であり、この砦が秀吉方の最前線であったことがよく分かる。

【余談】
この東野山砦であるが、縄張の複雑さや良好に残る遺構も見応え充分で良かったが、それ以上に印象深い思い出となったのは、山麓からの林道2.5kmである。
それほど狭くはないものの、粘土質の柔らかい未舗装道で、非常に深い轍、しかも片側は崖で、勿論ガードレールなどない。細心の注意を払いながらの運転だった。
砦跡のすぐ横が、木材の集積地で、トラックが行き来するらしい。
道の途中でトラックと出会ったら、すれ違うことの出来そうな場所は、少なくとも私は一箇所も気がつかなかった。
幸い、トラックとは出会わず(砦横到着後、5分後にトラックが登って来て、その20分後に降りて行った)、大きなワゴン車(多分林業関係の車)と出会っただけであったが・・・(汗)。尤も、この時のすれ違いも、結構ギリギリだった(汗・汗)。
もし、トラックと出会っていたらと考えると、ぞっとする(冷汗)。熊に出会うよりも嫌かも(苦笑)?
(2008/11/11登城して)

ギャラリー

東野山砦縄張略図(現地説明板より)

登城口
山上の砦跡までは狭い悪道ながらも車で登っていける。登城口には城址板と説明板が設置されており、城址はこのすぐ先(30秒)である。
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主郭北東部の空堀
登城口から歩き始めると、すぐにこの空堀へと出る。この堀底を真っ直ぐ進む。
DSC03515

主郭北西の虎口
主郭付近の虎口は、いずれも折れを入れ、横矢が掛けられている。この主郭北西部の虎口も同様である。写真左奥(主郭北東部)は高くなっており、櫓か何かの建物が建っていたのであろうか。
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主郭
東野山砦の縄張りは非常に複雑で、一見したところ何処が主郭か判断しにくいほど曲輪内に多くの土塁による障壁を設け、曲輪内は迷路のようになっているが、この一番北の曲輪が主郭と思われ、曲輪内には「東野山砦跡本陣」と刻まれた石柱が立っている。
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DSC03516

主郭西の空堀
主郭の西側尾根(写真右側)には小曲輪群があり、この空堀は主郭との間に掘られたものであるが、残念ながら西側尾根は藪がひどく入っては行けなかった。
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主郭南の虎口と南へと続く土塁
写真では分かり辛いが、手前の方に虎口があり、その両側(写真では前後)に折れのある土塁が続く。土塁横にははっきりと空堀が確認出来る。
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上写真土塁東側の空堀
土塁横にははっきりと空堀が確認出来る。
DSC03525

二曲輪?
主郭の南には東西に細長い曲輪(二曲輪?)がある。この北西(写真右奥)にも小曲輪群があるらしいが、藪がひどく入って行けそうになかった。
DSC03528

二曲輪南側の虎口(馬出しから撮影)
ここの虎口は結構広く、手前に馬出しがある。写真正面奥は主郭と西尾根の小郭群間の空堀で、右側土塁上は、主郭と二曲輪間にある小曲輪であるが、やや高くなっており建物が建っていたと思われる。その右奥に主郭がある。 
DSC03530

馬出し
二曲輪の南虎口外には馬出し跡が良好に残っている。
DSC03527

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