大和 多武峰(桜井市)

新緑の淡山神社

大和国衆の越智・箸尾・十市氏らが立て籠もった城郭寺院

所在地

奈良県桜井市多武峰(淡山神社)

形状

城郭寺院

現状・遺構等

現状:淡山神社
遺構等:石垣

満足度

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訪城日

2002/05/01

歴史等

多武峰(とうのみね)は延暦寺の末寺であったため、大和を支配する興福寺との争いの歴史は古く、天仁元年(1108)以来、 たびたび興福寺僧徒に襲われて焼亡した。
永享9年(1437)には高取城の越智氏と呼応し、 のち南朝勢力をかくまって蜂起し、幕府軍に攻め落された。
嘉吉2年(1442)には越智氏が多武峰に城郭を構えて、やはり落城した。
永正3年(1506)、赤沢朝経軍に対抗する大和国衆のうち、越智氏・箸尾氏・ 十市氏ら南脇衆が連合して立て籠もった時が最大の合戦であった。
『日本城郭大系10より』

現況・登城記・感想等

日本城郭大系には「山岳寺院の城郭としての評価が今後の課題となっている」と記されているが、多武峰(とうのみね) を城郭として意識する人は、そうそう居ないだろう。
多武峰といえば談山神社であり、勿論、私も何度か出掛けたことがあるが、城郭として見たことはない(苦笑)。
多武峰で武に関することで知っていたことと言えば、「兄頼朝の怒りに触れた義経が、その十字坊を頼り、弁慶たち家来一行を引き連れ、 多武峰に落ち延びてきた」といことくらいかな・・・。
次回、行ったら東大門を入った所で屈折する石垣や城郭構えと言われる営舎の配置にも注意してみよう。

 

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