大和 龍王山北城(天理市)

龍王山北城本丸と辰巳ノ櫓間を断ち切る堀切

興福寺大乗院方の衆徒・十市氏によって築かれた巨大山城

所在地

奈良県天理市柳本町
【アクセス】
天理市街から国道25号線で天理ダムを目指します。ダムの手前から左手にダムを見て県道247号線に入り、1.5kmほど南下すると右手に龍王山への曲がる林道(小さな案内板有り)があるので右折し、1.5kmほど道なりに登って行くと右手に立派な石碑と説明板が立っています。石碑の手前が北城本丸への登城口です。車は近くの道幅の広い所に停めました。

形状

山城(標高521.7m)

現状・遺構等

【現状】 山林
【遺構等】 曲輪、土塁、空堀、畝堀、石垣、石碑、説明板

満足度

★★★★

訪城日

2015/11/12

歴史等

龍王山城は、南北朝の頃に小さな砦をつくられたのがはじめてで、天文年間(16世紀)十市遠忠が小さな砦をもとに一大城郭を築いた。
十市氏は、興福寺大乗院方の国人で長谷川党の領袖で、室町・戦国時代にかけて筒井氏・越智氏に次ぎ、古市氏・箸尾氏と並ぶ大和五大豪族の一つに数えられ、平時は十市城を居城していた。
遠忠の代には十市氏の最盛期を迎え、その勢力は筒井氏をも凌駕するほどになり、本格的な城郭造りがなされ、その頃に北城が築かれたと思われる。
しかし、その子の十市遠勝の代になると、筒井氏と松永氏の勢力争いに翻弄され続けた。
そして永禄11年(1568)7月末には、宇陀秋山城の秋山氏に攻められ、遠勝はほとんど抵抗することもなく龍王山城を捨て十市城へ逃げた。
その後、しばらく龍王山城には秋山氏が居城したが、織田信長の大和侵攻後の天正6年(1578)、信長の命により破却された。
『「日本城郭大系10」、「現地説明板」等参照』

現況・登城記・感想等

今回の大和の城めぐりでは、予定していた時間を遥かに超えてしまい、龍王山城に到着するのが大幅に遅れてしまい、許された時間は僅か30分です。
登城前から大規模な山城であることは知っていたつもりですが、龍王山城に到着して説明板の縄張図を見ると想像していた以上に巨大な山城であることが分かりました。
止むを得ず、北城の本丸まで登っただけで下城せざるを得ませんでした(/。ヽ)。
それでも、当城が広いだけでなく、堀切や曲輪等々の遺構も規模が大きい上、その多くが良好に残っているのだけは分かりました。
是非、否、絶対に近いうちに再登城します。
(2015/11/12登城して)

ギャラリー

龍王山城縄張図(石碑横の説明板より) ~画面をクリックにて拡大~
この山城は、南・北二つの峰に別れていて、北の方が60mほど低いが、北城の方が大型規模である。南北両城を合わせると、大和随一の中世城郭である。二ヶ所に別れてながら、互いに呼応しあって、一つの城を形づくっているのを別城一郭の構えという。北城(城台)は、標高521.7mの郭を中心に、太鼓ノ丸、辰巳ノ櫓、時ノ丸、五人衆の郭、茶屋ノ屋敷、西ノ大手ノ丸などの郭が幾重にも重なり、土居や掘割、井戸、それに「馬ヒヤシ」と称する水溜などもあって、中世城郭として原形をよく留めている。南北朝の頃、小さな砦をつくられたのがはじめてで、天文年間(16世紀)十市遠忠が小さな砦をもとに一大城郭を築いた。遠忠は大和武士として知られたのみならず歌人として、とくにすぐれていた。その子遠勝の時、永禄十一年(1568)七月末ほとんど抵抗することもできずに、龍王山城を明け渡して十市平城(橿原市十市)へ退いてしまい、華々しい籠城も行いえず、秋山氏の手に渡してしまったようである。大和一の名城の龍王山城50年の歴史は終わった。いまも落城にまつわる幾多の悲しい物語を伝えている。
十市遠忠(?~1545)
十市遠忠は天文十四年(1545)三月十六日病没、年齢は四十代であったと考えられる。遠忠は武人としてもすぐれ、十市家中興の祖とされ、他面、歌人でもあり、書家でも一家をなし、文武両道に秀でた人であった。彼は飛鳥井二楽軒門下の歌人としてぬきんでていた。その歌集五部までが「群集類従」に収録された。
えにしあれや長岳寺の法の水 むすぶ庵もほど近き身は (天文四年孟夏)
天の下治まる時を朝夕の 月にも日にも先ず祈るかな (享禄四年)
天理市史より抜粋 天理市教育委員会(以上、説明板より)

龍王山城縄張図

龍王山北城縄張図(馬池傍の説明板より) ~画面をクリックにて拡大~
龍王山城は、奈良盆地の東にそびえる竜王山頂上(標高585m)に築かれた山城である。城の範囲は、北城と南城に分かれ、奈良県に残る城跡では最大級に含まれ、信貴山城に次ぐ規模である。中世・大和の有力豪族である十市氏の山城として発達した龍王山城は十市遠忠によって本格的な城郭造りがなされたものと思われる。
郭を尾根筋に沿って一列に築いた連郭式山城の形態をもつ南城に比べて、北城は本丸の回りに郭を配置した環状式山城で、石垣の跡も各所に残すなど、城郭の特徴では南城が古い形態を保ち、北城が後に築かれたものと考えられる。龍王城は、天正六年(1578)に破却されたが、日本の中世に築かれた山城の原形を良く留めており、城の歴史を知るうえで貴重な遺跡である。天理市教育委員会(以上、説明板より)

龍王山北城縄張図

龍王山城の石碑と縄張図付き説明板(龍王山北城本丸への登城口)
龍王山城は北城と南城からなる一城別郭式の山城です。北城本丸への登城口は、石碑前にあります。
石碑と説明板

南虎口
石碑前から、左手に太鼓ノ丸の切岸を見ながら歩いて行くと南虎口へ出ます。脇には石垣が残っています。
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本丸と太鼓ノ丸間の大堀切
南虎口から入ると、左側に本丸と太鼓の丸間の大堀切が見えます。当城は、ほとんどの曲輪間を空堀で断ち切っているようです。
本丸と太鼓の丸間の堀切

登城道
南虎口から先は、右へ曲らねばならず、本丸へは何度も曲がって行くことになります。写真正面上は辰巳ノ櫓で手前右には土塁が設けられています。
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堀底道
そして、曲輪間を区切る空堀下を歩くようになります。左上が本丸で、正面奥が辰巳ノ櫓です。
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北城本丸と辰巳ノ櫓間の堀切
登城口から3~4分ほど、道なりに登って来ると北城本丸と辰巳櫓間の堀切へ出ます。本丸との高低差は5mほどです。
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辰巳ノ櫓の切岸下の石垣
辰巳ノ櫓の切岸の下部に、僅かですが石垣が。
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本丸
本丸は、兎に角、だだっ広く、当城が如何に大規模な城であったかが分かります。
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馬池
石碑のちょっと先へ登ったところに馬池があります。
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