東市小学校の運動場南西隅に立つ城址碑
興福寺大乗院衆徒最大勢力であった古市氏の城
所在地
奈良県奈良市古市町268
【アクセス】
東市小学校が本丸跡。
小学校の周囲には駐車できる場所ない上、道も狭いです。私は小学校の西約500mほどの車の通行が少なくて、比較的広い道の端に停めて廻りました。
東市小学校:奈良市古市町268、電話0742-61-6563
形状
平山城(標高110m、比高約20m)
現状・遺構等
【現状】 東市小学校ほか
【遺構等】 曲輪、堀、出丸の堀切、石碑
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2016/02/04
歴史等
古市城は、室町時代に古市氏によって築かれた。古市氏は、興福寺大乗院衆徒の中で最大の勢力を誇った国人であった。
大和永享の乱後の河内守護代畠山氏の合戦(政長×義就)では、古市胤仙-胤栄は筒井氏との対立から義就派に近づき、応仁の乱には明確に西軍(義就派)に属した。
文明7年(1475)胤栄に代わって家督を継いだ澄胤は、文明9年(1477)に大和守護代に相当する地位を築き、明応2年(1493)には南山城の相楽・綴喜両郡の守護代に任じられた。
古市氏全盛期の古市城は、茶湯・連歌・風流などの催される文化的なサロンの体をなし、京都から公家や文化人がしばしば来訪したという。
明応6年(1497)、それまで没落していた筒井氏が盛り返し、澄胤は城に火を放って山中に退いた。
同8年(1499)、古市氏は、筒井氏・越智氏ら主だった国人衆の盟約から排除され、細川政元の派遣した赤沢朝経・長経と結んで国人衆と対峙していたが、永正5年(1508)に澄胤は敗死した。
以後、公胤が跡を継ぐが、古市氏の勢力は後退し、やがて筒井氏の傘下に組み込まれていった。
『日本城郭大系10より』
現況・登城記・感想等
古市城跡は、現在、本丸跡が東市小学校となり城の遺構はほとんど残っていませんが、小学校一帯は周囲よりかなり高く、南側と西側が急崖になっており、ここに城があったのも頷けます。
南側急崖下に溜池がありますが、これは往時の堀跡です。
また、溜池の南側の竹藪は出丸(出城)とのことで、藪の中に曲輪と堀切が残っています。
尚、城跡西側の崖に沿った小学校への坂道を登って行くと右頭上の金網に囲まれた中に城址碑が立っています。
(2016/02/04登城して)
ギャラリー
古市城跡と出丸(出城)跡遠景
城跡の西約500mほどのところから撮影したものです。
城跡南面
古市城跡は、現在、本丸跡が東市小学校となり城の遺構はほとんど残っていませんが、小学校一帯は周囲よりかなり高く、南側と西側が急崖になっており、ここに城があったのも頷けます。
堀跡
南側急崖下に溜池がありますが、これは往時の堀跡です。
出城の堀切
溜池の南側の竹藪は出丸(出城)とのことで、藪の中に曲輪と堀切が残っています。
東市小学校運動場南西端の金網内に立つ城址碑
城跡西側の崖に沿った小学校への坂道を登って行くと右頭上の金網に囲まれた中に城址碑が立っています。