天守台石垣(手前)と本丸石垣(奥)
日本三大山城の一つ、豊臣秀長大和支配時は郡山城の詰城、植村氏230年の居城
別名
越智城
所在地
奈良県高市郡高取町高取
【アクセス】
壺阪寺を目指して行き、左手に壺阪寺を見ながら、さらに少し登って行くと駐車できる場所があり、壺阪口へ向かう登城口になります。尚、その道をさらに登っていくと主郭部真下にある七ツ井戸駐車場まで行くこともできます。
壺阪寺:奈良県高市郡高取町壷阪3、電話0744-52-2016
形状
山城(標高583m、比高390m)
現状・遺構
【現状】山林(国指定史跡)
【遺構等】曲輪、石垣、堀、井戸、石碑、説明板
満足度
★★★★★
訪城日
1996/05/12
2007/11/18
歴史等
南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が正慶元年(1332)に築城したといわれる。当初は越智氏の本城である貝吹山城の支城として機能していた。永正15年(1519)越智氏は越智党の子嶋氏が守る高取城を攻め取り、以後、越智氏の本城となる。
天正11年(1583)越智氏滅亡後、郡山城の詰の城として筒井順慶の家臣・松蔵氏が入城。
天正13年(1585))筒井氏が伊賀国上野に転封となり、大和国は豊臣秀長(豊臣秀吉の異父弟)の配下となり、秀長は郡山城に入城し、高取城には秀長の家臣・本多正俊が入り、城を大改修した。秀長死後、高取城主となった。
寛永14年(1637)、嗣子がいないことから本多家が断絶後、同17年(1640)植村家政が2万5千石で入封し、以後、植村氏が14代230年在城した。
『日本城郭大辞典(新人物往来社刊)参照』
日本三大山城
高取城は、岩村城、 備中松山城とともに日本三大山城の一つで、高取城は日本一比高の高い城、岩村城は(江戸諸藩の城郭の中で)日本一標高が高いところにある山城で、備中松山城は天守が現存する唯一の山城と、それぞれ日本一の特徴を持っている。
現況・登城記・感想
私の『山城登城の鉄則』は「山城は山麓の登城口から登るべし」ですが、高取城は日本三大山城の中で「日本一比高の高い城(比高差390m)」であり、麓の壺阪山駅から本丸までは2時間ほど掛かるそうです。
今日は他にも登城したい城跡があるのと、かつての同僚仲村さん、友井さんとの登城であり、高取城跡の山腹にある壺阪寺から少し登ったところにある壺阪口へ向かう登城口の傍に駐車できる場所があるので、そこから登ることにしました。
そこから、山頂の主郭部を目指して山道を歩いて登って行くと見事な石垣群が次々と現れ、嬉しくなってきます。また、それらの石垣群があまり復元整備がされていないことで、かえって往時を忍ばせてくれます。
さらに、山頂の主郭部まで到着すると、本丸や二の丸の高石垣をはじめ、天守台をはじめとする櫓台石垣や桝形虎口の石垣等々多くの石垣群は見事というほかなく圧倒されっぱなしです(*^_^*)。
尚、山頂部では多くの人に出逢いました。今では格好のハイキングコースになっているのでしょう。私も本来なら山麓から歩いて登りたいところでしたが、山腹から歩いて登って来ただけでも、この城の素晴らしさは充分感じ取ることが出来ました。
ただ、2度の登城したにも関わらず、どちらも縄張図を持たず登城したのと、三の丸等々、北方向へ延びる曲輪を廻らなかったので、城跡の全体像がイマイチ分からないまま下城することになってしまったのは残念です。また、いつか登城したいものです。
(1996/05/12、2007/11/17登城して)
ギャラリー
登城早々に出逢う石垣
壺阪口へ向かって薄暗い山道を歩き始めると、早速、このような石垣に次々と出逢います。
本丸下曲輪にて(左が新櫓跡、右が太鼓櫓跡) ~クリックにて拡大画面に~
天守台石垣(左)と本丸石垣(右) ~クリックにて拡大画面に~
天守台石垣(手前)と本丸石垣(奥) ~クリックにて拡大画面に~
七つ井戸から新櫓を見上げる ~クリックにて拡大画面に~
新櫓横の虎口から七つ井戸方面は大変な急崖になっており、石垣が何段にもなっており、かなり崩れている所もある。