本丸虎口石垣(六段壁)
信長に磔にされた「女城主(信長の叔母)」の城、日本三大山城の一つ
別名
霧ケ城
所在地
岐阜県恵那市岩村町城山
【アクセス】
国道257号「裏山信号」を北へと国道363号へ入り(案内有)、400m程北上して右折し、案内に従って岩村歴史資料館・民俗資料館の駐車場へ。そこから登城道へ続く道がある。
また、「裏山信号」から国道363号を2km程北上して右折し(案内有)、3km程南下すると本丸下の駐車場(出丸)に着きます。
岩村歴史資料館・民俗資料館:恵那市岩村町98番地、電話0573-43-3057
形状
山城(標高:721m、比高差:180m)
現状・遺構等
【現状】 城址公園(山林)
【遺構等】 曲輪、石垣、堀切、井戸(霧ヶ井他)、移築旧藩校 (知新館正門)、模擬櫓、模擬城門、模擬土塀、石碑、説明板、遺構解説板
満足度
★★★★★
訪城日
2004/08/12
2013/08/12
歴史等
岩村城の創築は鎌倉幕府初代将軍源頼朝の重臣加藤景廉が文治元年(1185)に岩村遠山荘地頭に補せられたのに始まる。景廉の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山の改め、以後遠山氏が代々居城した。戦国時代の遠山氏は「遠山七頭」と云われる一族の結束を保っていたが、その一族の本家が岩村城に拠る岩村遠山氏であった。
岩村は三河、尾張、信濃の3国と美濃を結ぶ街道の結節点に位置しており、織田氏・徳川氏・武田氏の3勢力の境目にあり、その中で微妙なバランスをとっていた。
ところが、元亀元年(1570)頃から、織田氏・武田氏の間が緊張してきた。
元亀年間(1570~73)の岩村城主は遠山景任で、その妻は織田信長の叔母である。元亀2年(1571)遠山景任が病死したが、景任とその妻、すなわち信長の叔母との間には子供がなく、信長の第四子御坊丸を遠山氏の養子としていたが、御坊丸がわずか3歳であったため、景任の未亡人(信長の叔母)が実質上の岩村城主となった。
元亀3年(1572)、武田信玄が上洛の軍を起こした。武田軍は、山県昌景の先鋒隊と信玄本隊との軍団を2手に分けて、東三河に向けて出発したが、この西上に際しては、もう一つ別に、信濃飯田城の城将秋山信友率いる信濃勢の別働隊があり、この別働隊は東美濃へと侵攻し、岩村城を攻撃した。しかし堅牢な山城はなかなか落ちず、一方信長も援軍を出せずにいた。4ヶ月を超す籠城戦で心身ともに弱っていた女城主に対し、敵将信友が和睦の条件に、「女城主を妻に迎え御坊丸も守る」と申し入れた。開城した信長の叔母は信友と結婚したが、御坊丸は人質として甲府へ送られた。
天正3年(1575)織田・徳川連合軍は長篠合戦で武田勝頼を破ると、信長はただちに嫡男信忠に岩村城を攻めさせ、5ヶ月余りにわたる包囲ののち開城させた。開城の条件は、籠城兵の助命であったが、信長は籠城兵を皆殺しにし、さらに叔母を許さず、彼女は夫や三人の武将と共に逆さ磔刑に処せられた。彼女はこの時、激しく泣き悲しみ、信長に対する呪いの言葉を絶叫して息絶えたという。女城主の悲惨な最期であった。
その後、信長は河尻秀隆を岩村城主とし、秀隆は城の大改築を行なった。天正10年(1582)河尻秀隆の甲斐移封後は森蘭丸、その兄の森長可が相次いで居城したが、森蘭丸は同年の本能寺の変で討死し、また森長可も天正12年(1584)小牧長久手の戦いで討死した。次いで森蘭丸・長可の末弟忠政が岩村城主となり、近世城郭に改築した。
慶長5年(1600年)田丸直昌が4万石で入封したが、関が原の戦いで西軍に属したため除封となり、代って松平(大給)家乗が城主となり2代、その後、丹羽氏5代を経て、元禄15年(1702)信濃小諸から大給松平分家の松平乗紀(のりただ)が入封し、以後、松平氏7代の居城として明治維新を迎え廃城となり、後明治6年(1873)に取り壊された。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「現地説明板」参照』
日本三大山城
岩村城は、大和高取城、 備中松山城とともに日本三大山城のひとつで、江戸諸藩の城郭の中で岩村城は日本一高いところにある山城、大和高取城は日本一比高の高い城で、備中松山城は天守が現存する山城と、それぞれ日本一の特徴を持っている。
現況・登城記・感想等
岩村城と言えば、武田氏と織田氏の領土の境目にあり争奪戦のあった城、そして女城主(織田信長の叔母)の城として有名である。また、信長が本能寺の変の80日前に宿営した城でもある。
そのような歴史と城址の写真を見て、以前から是非登城したいと思っていた城址である。そして、遂に叶った(^^)
城址は、期待通り曲輪や石垣、石畳、井戸等々の遺構が良好に残る素晴らしい城址であった。
岩村城址の見どころは、本丸周辺をはじめとする石垣群であろう。特に、本丸虎口石垣の六段壁は見事である。
ただ、今回の登城は
①真夏の盛りのため雑草や木々の葉に隠れ、大手門周辺の石垣をはじめとして見辛かった遺構も多かったこと。
②麓の登城口が見付からず、私の山城登城の鉄則『山城は麓から登城すべし』が守れず、本丸すぐ下の出丸跡にある駐車場まで車で登ってきてしまい、本丸から下山していくという順路になってしまった。
の2つが心残りだ。
冬期の草や葉がない頃に、麓からじっくり時間を掛けて再登城したいものである。
また、超長期計画とのことではあるが、「本物の城復元」を主体に城と城下町の復元・再現の計画があるそうで楽しみだ。
しかし、「超長期計画」って、どれくらい??
(2004/08/12登城して)
9年ぶりに岩村城を訪れた。今回は、1歳5ヶ月の孫・S介と一緒の登城です(*^_^*)。9年前の登城も、奇しくも同じ8月12日でした。昨日登城した苗木城も、今日の岩村城も、それぞれ同じ日に孫と一緒に登城とは、偶然とはいえ何かの縁でしょうかねえ(*^_^*)。
本来なら、山麓の登城口から歩いて登りたいところだが、さすがにS介を連れて登るのは無理です。今回も、山頂部の本丸下の出丸まで車で登り、本丸周辺を散策後、大手門跡まで下りてから戻ってきました。
本丸の石垣(西面石垣、六段壁、埋門、東口門等々)をはじめ、菱櫓、八幡曲輪、大手門周辺の良好に残る石垣は、見応え充分で、何度見ても見飽きません。
尚、「超長期計画」というのは、9年を遥かにしのぐ期間のようで、八幡櫓の絵の看板も、そのままでした(苦笑)。ただ、今回は、旧城下町を散策したが、両側に商家などの旧家が軒を連ねる道から望む八幡櫓の絵の看板は、結構様になっていました(笑)。
また、前回は、あまりの藪で突入を諦めた中世の山城時代の遺構である南曲輪が整備されていた。
何度でも訪れたい城跡です。
(2013/08/12登城して)
ギャラリー
縄張略絵図 ~現地(出丸)案内板より~
藤坂の険
山麓の藩主邸跡脇から歩き始めるとと、石畳の登城道へ出る。この石畳は土岐門まで延々と続きます。藤坂は険しい急坂で岩村城守備の前衛の役を持ち一の門に至る約300mをいう。
初門
藤坂の険をしばらく登って行くと、途中で大きく左折するが、 この地点を初門、又は仮御門と称していた。戦争となるとただちに門を構え、柵をめぐらして強固な防衛陣地としたが、 ここから城下町を一望することが出来るので、敵の動静も知る事が出来た。
大手一の門
藤坂と土岐坂を区切っているのが一の門で、ここからが岩村城の本城である。一の門は櫓門(二階建て)で、左側に番所があり平時でも監視の役人が出入りの時に厳重に調査してから通した、一の門は、岩村城守備の第一線で櫓門の上から城下町を一望でき、町の動静については昼夜を問わず兵が監視に当っていた。
土岐門
土岐坂の突き当たりの石垣の約10m幅は岩村城で最も古く、中世末期のものといわれている。
大手門・三重櫓・畳橋(説明板の絵から)
畳橋は、敵が攻めてくると橋板をとってしまうので、その名がある、大手門は正門であり外枡形を構える。枡形西側の平重門を入ると正面に八幡曲輪西端の石塁が高く立ちはだかり右折すると大手門がありその右側には三重櫓が建っていた。この三重櫓は天守閣の如く偉容を誇り、城下町からも見栄えがした。(説明板より)
畳橋(大手枡形石垣上から撮影)
雑草と木の葉で、かなり石垣が隠れてしまい、畳橋・大手櫓門・大手三重櫓を別々にしか撮れなかったが、下の3枚の写真を合わせると、上写真のイメージが出来上がると思うが、どうでしょうか??
大手枡形と大手櫓門
右下の石垣は大手三重櫓の石垣です。皆が居る辺りは、大手枡形で、その後ろ辺りに大手櫓門があったようです。
大手三重櫓
八幡曲輪と五郎作屋敷址の石垣
大手櫓門跡を通り過ぎると、両側に石垣が築かれた道になる。左側が八幡曲輪跡で右側が五郎作屋敷址です。どちらも城内住み込みの侍屋敷跡のようです。
八幡曲輪の石垣
八幡曲輪は東西に細長く広い曲輪で、「岩村城創築者・加藤景廉を配神した八幡神社(明治に遷宮)があったことから八幡曲輪と呼ばれる。西方と北方の物見台として二層の遠見櫓が建っていた。当写真は八幡社が祀られていた東部分の石垣です。
八幡櫓の絵の看板
八幡曲輪の西端には八幡櫓が建っていたようですが、何ともちんけです(苦笑)。しかし、このあと城下から見たら、これが結構様になっていたから面白い!? コストパフォーマンスを考えれば、これも有りですかね?
侍屋敷(五郎作屋敷址)
竜神の井
五郎作屋敷址の手前(登城道沿い)に「龍神の井」が残っている。説明板には「岩村城最大規模の井戸で、昭和60年に創築800年を記念して復元された。昭和62年に岐阜県の名水50選に認定された、今も絶えることなく、味は天然の美味さがある。」とあったが、同時に「この井戸水は生水では使用しないで下さい」とああります。
霧ヶ井
この井戸は城主専用のものでお堂の中にあった。伝説によると敵が攻めて来た時城内に秘蔵した蛇骨を霧ヶ井に投入すると惣ちにして雲霧が湧き出して全土をおおい、敵兵は地形が見えなくなって攻めあぐみそこに城兵が突入して勝利を得たといわれている。霧ヶ井はどんな日照りがつづいても決して水の涸れない不思議な井戸で江戸時代に百日余り続いた日照りにも水は豊富であったという。(以上、説明板より)
尚、覗いてみたら水が満ちていました。尤も、この井戸も「この井戸水は生水で使用しないで下さい」とありました。
菱櫓と六段壁
八幡曲輪脇を通り、三の丸跡につくと右手前方に二の丸菱櫓石垣とその向こうに岩村城の象徴ともいうべき六段壁が見えてくる。
菱櫓
山の地形に合わせて石垣を積んだので菱形になった山城独特のものである。この上にあった建物も菱形であったので菱櫓と呼ばれた。菱櫓は全国城郭にも、その例はあまりなく、中世期の山城を近世城郭に改築した城郭の貴重な歴史的遺構である。(説明板より)
二の丸跡
草茫々で中に何とか入っていくのがやっとですが、石垣があちこちに残っている。
【本丸周辺】
六段壁
地形が急斜面のためにとった工法で、6段階積みとなっているため「六段壁」と呼ばれている。元々は、最上部のみの高石垣であったが、崩落を防ぐため前面に補強の石垣を積むことを繰り返した結果現在の姿になったという。
長局埋門
両側の石垣の上に多聞櫓を乗せ、石垣の間に門を設けた櫓門でした。門から入った細長い曲輪は長局(ながつぼね)と呼ばれている。入って左手の本丸に入る内枡形状の通路は東口門で本丸の正門です。
東口門枡形
本丸の正門である「東口門」を、本丸に入ったところに「織田信長宿泊地 本能寺の変80日前に信長が泊る」と書かれた立札が立っている。岩村城は、城主・遠山景任亡き後、未亡人となった織田信長の叔母が実質上の城主となったが、のちに信長に「逆さ磔刑」にされたのですよねえ。「本能寺の変」と関連はないものの、何か生々しいような気がしませんか?
本丸跡
本丸には納戸櫓など二重櫓2棟、多聞櫓2棟が石垣上に構えられていたが、内部には施設は無く広場になっていたという。
昇龍の井戸
本丸には「昇龍の井戸」の跡が残っています。標高717mという高地にありながら、水が枯れることがなかったそうですから凄いですね。覗いてみたら、さすがに今では水は満ちていませんでした。
本丸埋門跡
本丸に入る搦手門で、埋門になっていて、門の右側には納戸櫓(二重櫓)が建てられていた。この門の石垣は、野面積み・打込ハギ・切込ハギの3種類を一度に見ることが出来ます。これは、岩村城の変革を示す貴重な遺構です。切込ハギは享保3年(1718)の大地震のあと修築したもので、また、門の左側の石垣は土岐坂の石垣についで古いものです。
本丸埋門枡形
石垣のクランクした通路には、3箇所に門扉が設けられていたそうです。
本丸西面の高石垣
本丸西側の高石垣は、本当に見事なもので、今更ながら「こんな高い山の上によくぞまあ」と思ってしまいます。
本丸南下の帯曲輪
本丸の南下には帯曲輪がある。この本丸南側の石垣も良好に残り、なかなかのものです。
東曲輪東面の石垣
【出丸】
本丸跡から出丸跡を見下ろす
出丸は本丸南部の防衛の役目を持ち、東曲輪・帯曲輪と共に本丸を防衛していた。櫓が2つ、多門が3つあり、門は1つのみで帯曲輪からしか入れなかった。櫓は二重櫓と太鼓櫓があり、城下町がよく見える位置にある。太鼓櫓には大太鼓があり、非常の際には城下に知らせた。今は、出丸跡は駐車場となり、休憩所(トイレ有り)として多聞櫓風の「永餅蔵」が再建されている。
氷餅蔵
氷餅蔵というのは、籠城に備えて氷餅(こおりもち)を貯蔵していたそうです。「氷餅」とは、凍(し)み餅ともいい、餅を液状にして厳寒のもとで凍らせ、十数日かけて自然乾燥させたものだそうで、鎌倉初期からあり、武士は陣中の糧食として食べたものらしい。
【笑い話】 最初、私は「永餅(ながもち)」と呼んでしまい、私の故郷・四日市名物を思い起こしました。そんな贅沢な物の訳がないですよねえ(笑)。
【南曲輪】
本丸南下の突き出た尾根にある遺構で中世の山城時代の遺構です。近世城郭へと改築するにあったって、中世の遺構は切り捨てられ、山の中に遺構が残り、削平地と堀切、土塁、土橋が確認できる。前回の登城時(2004/08/12)は強烈な薮で、とても入って行けるような状態ではなかったが、かなり整備され、堀切等がはっきり確認できまし(*^_^*)た。
【山麓の藩主邸跡】 「まち並みふれあいの館」内の印刷物より
藩主邸(御殿)は、江戸時代初期(1610年頃)、松平家乗によって創設され、山頂の岩村城本丸から降りて入邸した。防衛防備には充分の注意をはらい、門には番所を置いて出入りを監視し、屋敷内には地下室や地下道もあった。明治2年(1869)版籍奉還により岩村県となり、藩主が知事になると、ここを県庁とした。明治4年(1871)廃藩置県により知事松平乗命は東京移住を命ぜられ藩邸は空家となったが、明治14年(1881)10月30日夜、失火により全焼した。部屋は、東西33間(約60m)、南北36間(約65.4m)という広大なもので、他に御内家、土蔵、番所などの建物が23あった。(説明板より)
藩主邸跡
跡地には、昭和47年(1972)岩村町歴史資料館が開館し、平成2年(1990)表御門・平重門・太鼓櫓などが復元された。また、旧藩校・知新館正門が移築されている。写真の建物は歴史資料館です。
太鼓櫓と表御門
右から太鼓櫓、表御門。左端の階段の上が平重門。
知新館正門(右手前)と太鼓櫓(左奥)
【城下町】
城下町・岩村の町並みは、往時の面影をよく残しており、商家などの旧家が軒を連ねています。そして、その町並みを通る道の正面奥、山の上に、先程見た八幡櫓の絵の看板が見えるが、想像していた通り、結構様になっているのです(*^_^*)。
城下町岩村から岩村城を望む