大和 柳生城(奈良市)

堀切

将軍家剣術指南役、柳生新陰流発祥の地

所在地

奈良県奈良市柳生町
【アクセス】
国道369号「柳生信号」を600m程南下して斜め左の道へ入ると「芳徳寺」へ上がる道があるので、芳徳寺に向かう。寺の南に建つ正木坂道場の東側にある井戸小屋脇が登城口。芳徳寺へ上がる麓に市営駐車場あり。

所要時間

登城口(井戸小屋脇)から4~5分で本丸へ。

形状

山城

現状・遺構等

【現状】 山林、芳徳寺
【遺構等】 曲輪、堀切、石碑

満足度

★★☆☆☆

訪城日

1997/08/03
2016/02/03

歴史等

築城年は不明だが、柳生氏が築城したといわれる。天文13年(1544)、筒井順昭に対して山中衆と共に柳生氏も抵抗したが、総勢1万の軍勢で城を攻められ落城した。
永禄2年(1559)、松永久秀が信貴山城を修築して大和侵攻を開始すると、柳生家巌・宗巌父子は松永氏に与し、永禄6年(1563)の多武峰合戦に出陣した宗巌は、傷を負いながらも奮戦し戦功を上げた。
その後、元亀2年(1571)の辰市合戦にも宗巌は松永久秀に味方し筒井順慶と戦った。この合戦で松永方は敗北し、宗巌の嫡男巌勝が負傷した。
その後、天正13年(1585)に柳生宗巌は秀吉により所領没収となるが、慶長5年に関ヶ原の戦功により宗巌の五男宗矩が柳生家再興を果たし、柳生陣屋を構えた。

現況・登城記・感想等

どうも柳生というと、「陰謀」の文字が頭に浮かび暗い感じがする。柳生の里は奈良市とは云いながら、非常に山奥深い里にあった。
芳徳寺と柳生一族累代の墓所を見ただけで帰ってきてしまった。
最近、かなり整備されたようであり、柳生陣屋ともども、機会があれば再訪問してみよう。
(1997/08/03訪れて)


柳生へは18年半ぶりに訪れました。
柳生城は、柳生氏の菩提寺芳徳寺の東南の丘陵山頂部に2段からなる本丸を置き、南北に延びる尾根上に小さな曲輪を設けた山城で、正木坂道場の東側にある井戸小屋脇から登城することができます。
北尾根には曲輪間に2本、南尾根には1本の堀切が設けられています。
北尾根はあまりの藪で入って行くことが出来ませんでしたが、南尾根の堀切は良好に残っている上、規模も大きく見応えがあります。
尚、これらの曲輪群の西側にある芳徳寺も正木坂道場も曲輪の一つであり、芳徳寺の前に立派な石碑が建てられています。
(2016/02/03登城して)

ギャラリー

柳生城本丸を見上げる
柳生城は、柳生氏の菩提寺である芳徳寺の東南の丘陵に築かれています。当写真は、芳徳寺の前から撮ったものです。
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登城口
柳生城へは、芳徳寺前に建つ柳生新陰流正木坂道場の東側にある井戸小屋脇から登城できます。
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南尾根の堀切
井戸小屋脇から登り始めると50mもしないほどで、南尾根を断ち切る堀切へ出ます。
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この南尾根の堀切は、良好に残っている上、規模も大きく見応えがあります。
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北尾根を
堀切を通り抜けて東の方へ廻ると、本丸から延びる北尾根が見えます。木々の間から堀切らしきものが見えますが、竹や木が倒れていて行くのは諦めました。
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登城道
堀切のところに戻り、堀切を登って本丸へ向かいます。登城道は斜面に沿った細い道です。
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腰曲輪
細い登城道を登って行くと、左前方下に削平地が見えます。本丸西下の腰曲輪です。
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浄水場
次に、右手上に浄水場が・・・。恐らく、ここは本丸南下の腰曲輪跡でしょう。
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本丸
登城口から4分ほどで山頂部の本丸跡へ到着します。本丸は2段になっています。
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本丸上ノ段
本丸上ノ段は薮状態なので、ここで下山することにしました。
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本丸下ノ段から芳徳寺を見下ろす
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芳徳寺と城址碑
柳生城跡の西側にある芳徳寺も正木坂道場も曲輪の一つであり、芳徳寺の前に「石舟斉塁城址」と刻まれた立派な石碑が建てられています。尚、芳徳寺には柳生一族の墓地があります。
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