大和 筒井城(大和郡山市)

光専寺の北方に残る外堀

筒井順慶の祖、筒井氏代々の本拠の城

所在地

奈良県大和郡山市筒井町
【アクセス】
国道25号線「筒井町」信号を北へ県道108号に入り、200m程北上すると左手に「八幡宮」があり駐車場があります。この西側一帯が城跡で、かなり城址案内板があります。道が非常に狭いので歩いて回るのをお薦めします。

形状

平城

現状・遺構等

【現状】 市街地、畑など
【遺構等】 土塁跡、外堀跡、石碑、城址案内板

満足度

☆☆☆☆

訪城日

2006/09/03

歴史等

筒井城は、天正8年(1580)筒井順慶が織田信長に従い、大和守護となって郡山城を築いて移るまで、筒井氏代々の本拠であった。
鎌倉時代の終り、正安2年(1300)には薬園庄(東大寺領庄園のひとつ)から「郡山庄」が独立した。こうした郡山の地には、中殿、辰巳殿、薬園殿、東殿、向井殿といった「郡山衆」と称された地侍たちが割拠していた。こうした郡山衆は、だんだん力を蓄え、それぞれが「搔き上げ城」と呼ばれる土を掻き揚げて築いた土塁をめぐらした館を構えていた。
郡山衆は、筒井城に本拠を置く筒井党に属したり、また南和の越智氏に属したりと離合集散を繰り返しながら戦乱の世を生き抜いていった。そうした中で、筒井順昭(順慶の父)が越智氏との抗争に勝ち抜き、統一されていった。
順昭が没すると、幼年の藤勝丸(のちの順慶)が継ぐことになった。間もなく、信貴山城に入った松永久秀が大和に侵入してくると離反するものが増えていき、順慶は2度にわたって筒井城を奪われたりした。
しかし、天正5年(1575)、信長の援助を得て、久秀を信貴山城にて爆死させると、郡山衆は順慶の傘下に組み込まれた。
天正8年(1580)順慶が、信長に大和の支配を許され、筒井城から郡山城へ移る。同年、信長は破城令を出し、大和でも郡山城以外は破却することを命じた。この時に筒井城も破却された。
『「郡山城内柳沢文庫印刷物・郡山城と城下町」、「歴史と旅・戦国大名総覧(秋田書店刊)」等参照』

現況・登城記・感想等

筒井城は、住宅地に埋もれて遺構は全く残っていないと思っていたら、菅田比売神社の近くに館の土塁跡らしき所が町(市?)に買い上げられフェンスで囲まれていた。その横には蓮畑などがあり、内堀跡であろうことが窺われる。
また光専寺の北方には、外堀の一部が住宅地に占拠されながらもよく残っていた。近くの70~80才くらいの方に尋ねたら、「今では堀もほとんど埋め立てられ家が建っているが、昔は堀だらけであった。」とのこと。
ただ、不思議なことに、外堀跡も含め城址への道案内があちこちにあるのに、その当該場所には何も示されていなかった。
(2006/09/03訪ねて)

ギャラリー

筒井城城跡推定図(近鉄筒井駅前案内板より)
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筒井順慶の碑(八幡宮の横)
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順慶まつりのポスター(八幡宮傍にて)
世間一般的には「洞ヶ峠を決め込む」の逸話(実話ではないようであるが)などから、あまり人気があるとは云えない順慶であるが地元では大変な英雄である。順慶は、茶の湯、謡曲などに優れた教養高い武将であったようである。

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館の土塁跡
住宅地に埋もれて遺構は無いに等しいかと思ったら、館の土塁(土台)跡らしき所が町(市?)に買い上げられフェンスで囲まれていた。その横には蓮畑などがあり、内堀跡であろうことが窺われる。
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筒井順慶城址の碑
土塁のある場所から畑の中を100mほど行き、家が建て込んだ地域に入る境目に「筒井順慶城趾」の石碑が建てられている。
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外堀跡
光専寺の北側には、外堀の一部が住宅地に占拠されながらもよく残っていた。近くの70~80才くらいの方に尋ねたら、「今では堀もほとんど埋め立てられ家が建っているが、昔は堀だらけであった。」とのこと。堀の中に家が建っている不思議な光景だ。
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