多聞城(若草中学校)への石段、右端に城址碑
梟雄松永久秀により築城、多聞櫓発祥の城
別名
多聞山城
所在地
奈良県奈良市法蓮町(若草中学校:法蓮町1416-1)
形状
平山城
現状・遺構等
現状:若草中学校
遺構等:堀切、土塁、石碑
満足度
★☆☆☆☆
訪城日
2007/11/13
歴史等
永禄3年(1560)或いは10年(1567)、松永久秀により築城された。
久秀は下剋上の風潮のなかで梟雄、奸物の名をほしいままにした。その出自は定かではないが、
これまた梟雄といわれる三好長慶の家臣となり頭角を現した。
世に久秀の3悪事というものがある。長慶の子の毒殺、足利将軍義輝の暗殺、東大寺大仏殿焼き打ちである。
こうして久秀は主家三好氏をしのぐ権勢を獲得していった。
久秀は台頭の過程で長慶により大和(奈良県)を与えられ、大和の中心奈良を押さえるために佐保山に多聞城を築いた。
その城は豪壮な御殿が建ち、塁堡を築き、大堀に多数の櫓があったという。櫓には4階櫓もあったという。塁上には長屋造りの櫓を設け、
これが多聞櫓の名称の始まりである。
久秀は、永禄11年(1568)入京した織田信長の勢いを見て取ると、素早く信長に下り、
信長の力を背景に一時期大和国内の制圧に成功するが、元亀2年(1571)には筒井順慶との決戦に大敗した。その順慶も信長に服属すると、
久秀は反信長戦線に加担したが、失敗し、天正元年(1574)信長に攻められ開城した。
久秀は、天正5年(1578)信貴山城に拠って信長に再び背いたが、
衆寡敵せず、子の久通とともに自刃した。10月10日のことであった。奇しくもこの日はかつて大仏殿を焼き打ちした日であった。
『「日本の名城・古城もの知り事典(主婦と生活社刊)」、「歴史と旅・戦国大名家総覧(秋田書店刊)」、「日本城郭大事典(新人物往来社刊)
」参照』
現況・登城記・感想等
梟雄松永弾正久秀の城、しかも初めて多聞櫓を設けた城ということで、遺構はあまり残っていないことは分かってはいたが、
大いに興味を持って登城した。
城址には若草中学校が建ち、石段の下に石碑が建っている。中学校は高台にあり、石段下から眺めると、城跡らしさを僅かに偲ぶことが出来る。
中学校の東側には堀切が残り道路になり、上には橋が架かっている。南西にある山には土塁や空堀が残っているとのことで、
蜘蛛の巣にも負けず入っていったがよく分からなかった。
その更に西側には聖武天皇陵がある。
(2007/11/13登城して)
ギャラリー
多聞城(若草中学校)への入口
奥の石段上の本丸跡には若草中学校が建ち、石段の下に石碑が建っている。中学校は高台にあり、
石段下から眺めると、城跡らしさを僅かに偲ぶことが出来る。
堀切
中学校の東側には堀切が残り道路になり、上には橋が架かっている。
土塁?
中学校の南西にある山には土塁や空堀が残っているとのことで、
蜘蛛の巣にも負けず入っていったがよく分からなかった。